石徳高神社の社名は「石の床の高い神社」の意味であろう。 もとは雄徳山(現在は大男山)の山頂に鎮座していた(北緯35度2分46秒,東経138度55分32秒) 延喜年間に八幡神を石徳高神に配祀し、その後源頼信のとき、平安末期に現在の寺家の神域に両神を遷し祀つた。 願成就院西の山腹に鎮座する。 石徳高神社は、現在では、雄徳山の麓の東と北とに分祀されて、それぞれこの神社を山頂に祀つていた人びとの子孫の住む里に、東にあるのが守山八幡神社、北にあるのが豆塚神社として鎭座している。 1180年の源頼朝挙兵の際、頼朝は守山八幡宮で戦勝祈願、この守山の地から山木兼隆攻めの戦果、館から火があがるのを見守った。 |
由緒 当社の創建は、大化五年(699年)で御祭神は大山祇神で延喜式内石徳高神社(いわとこたかじんじゃ)である。 延喜7年(907年)源頼義豊前国宇佐より八幡神を勧請して以来伊豆国総社八幡と称す。 治承4年(1180年)源頼朝此所に源家再興を祈願社兵を挙げて山木館に上る火煙を望見すと。 頼朝神威を畏み社殿を造営し心願成就(ねがいごとのかなふ)の社なり。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
源頼朝挙兵之碑 史蹟 源頼朝挙兵之碑 源頼朝 治承4年(1180)8月15日守山八幡宮に平家追討を祈願して挙兵 夜陰源氏重忠の軍兵数十騎山木判官平兼隆を襲い討つ其の間頼朝遥かに山木館の火煙を望み悲願の達成を悦ぶ蓋し鎌倉幕府草創の礎はここに於て成ると故に記して 建碑の所以とする 社頭石碑 |
守山八幡神社 當社の創建は大化3年(647)御祭神は大山祇神で延喜式内石徳高神社である 延喜7年(907)豊前国宇佐宮より八幡神を勧請合祀其の後専ら伊豆国総社八幡と稱す 治承4年(1180)源頼朝此處に源家再興を祈り兵を挙げる 現在の本殿は寛永9年(1632)久能城主榊原大内記照久の造営である 社頭掲示板 |