左内神社
さないじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】文梨神社 伊豆国 田方郡鎮座
   【延喜式神名帳】阿米津瀬気多知命神社 伊豆国 田方郡鎮座

          (旧地)左内神社【旧地】
          (旧地)左内神社【旧地】

   【現社名】左内神社
   【住所】静岡県三島市中島字西310-2
       北緯35度5分39秒,東経138度55分56秒
   【祭神】阿米都瀬気多知命
       祭神を櫛石窓命だとする説がある。この神は宮中の門前を護る神とされている。

   【例祭】7月17日 例祭
   【社格】
   【由緒】由緒不詳
       明治19年火災で手無の社殿焼失、翌年現在地へ遷
       明治40年6月21日神饌幣帛供進社に指定

   【関係氏族】
   【鎮座地】もとは現在地より北東約300m離れた
        小名を手無(てなし)というところに旧社地があつた
        明治20年現地へ遷

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【社殿】本殿
       拝殿

   【境内社】

式内阿米津瀬気多知命神社(あめつせけたちのみことじんじゃ)とする。
梅名川(殿川)を挟んで、東岸に当社、西岸に右内神社がある。
当社と右内神社は「三島大社御門左右ノ神」であり、三島大社の随神門として、下田街道の左右に鎮座している。
もとは字園田にあり、明治19年(1871)焼亡後現地へ遷。川沿いの小社。平地に鎮座する。
旧社地は遷座の後、宮畑(宮地と呼称)として耕作されていたが、駿豆広域水道事業の貯水場用地として接収された。(中島浄水場)
「大場川は箱根より三島市街を貫いて流れてゐる水量の豊かな川にして、すこぶる荒れやすい川であると言ふ。かうした地形的條件からこの社地の往古を推し量るならば、恐らくは大場川の激流が瀧をなし、冬ともなればもうもうと水蒸氣のたち上るやうな環境であつたと思はれる。斯様な推測が許されるならば、、社名の「阿米都瀬氣多知」はかうした環境を踏まへたものではないかと思はれる。」(式内社調査報告) また、式内文梨神社に比定されている。
地名のテナシはテテナシの略で、テテナシはチチナシ(父無し)の転化であらうという。


左内神社

公民館碑
中島区の隆盛を象徴する公民館が、左内の杜近いこの地に 地域文化の向上を図るセンターとして落成した。
遠い昔から中島区民崇敬の中心であった左内神社が、明治19年2月全焼したため、氏子等が相諮って現在地に遷座し奉り、その跡地は宮畑として耕作してきたが、たまたま駿豆広域水道事業の企画があり、その貯木場用地として提供することになった。
この用地代を基金とし、有志の寄付を合わせ区民多年の願望であった公民館を建設することになり、昭和48年5月 総面積417.9uの建物が区民喜びの中に完成したのである。
このように中島公民館は世情の変化にもかかわらず一千有余年崇敬の地としての心情を失うことなく、中島区の良き伝統によって建設された。
我々はこの公民館が先祖伝来の遺産の変わらぬ□として永く後世に伝えられ中島区民の福祉を□□ために活用されることを希うものである。
昭和48年5月吉日
中島区

社頭掲示板



左内神社

この神社の祭神は、阿米都瀬気多知命(あめつせけたちのみこと)、もと中島字園田に祀られており、梅名の右内神社とともに三嶋大社の御門の守護神として、下田街道の左右に祀られ、古くから土地の武士の棟梁に敬われていました。明治19年(1886)2月に火災に遭い、建物を全部焼失し、宝物、古文書が全部なくなってしまいました。明治20年(1887)4月に現地に移転新築し、昭和16年(1941)に改築され今日に至っています。
増訂(ぞうてい)『豆州志稿』(ずしゅうしこう)によれば、この神社は式内父梨(ちちなし)神社であると書かれています。
出典 『三島市誌 下巻』p.569、『田方神社誌』p.9、『Welcome to ふじのくに 三島』p.51

三島市HP



阿米都瀬氣多知命神社

阿米都瀬氣多知は假字也○祭神明か也○君澤郡中嶋村に在す、今左内明神と称す、(志)例祭
伊豆志に、豊磐窓命ニシテ、伊波氏別命卜三島大社ノ御門左右ノ神也、○國圖には、ミト村にありと云り、

神社覈録



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