『三宅記』の三島大明神の第三の后神(佐伎多麻比当ス)が八王子を一度に産んだ時、「一番はなご」が南子命であり、当社の祭神とする。 御笏神社の東北の奥に鎮座していた三ノ朔幣神社の祭神が南子命であり論社となっていたが、三ノ朔幣神社は、式内の南子神社というよりも、古くは南子神社の遙拝所であつたと考えられ、それがやがて南子命を祭る神社となり、社名を三ノ朔幣神社と定めたと思われる。 現在は社殿は無く、本社に合祀されている。 |
三ノ朔幣神社 境内神社「三ノ朔幣神社」は、古くは南子神社の遙拝所であるといわれていたようであるが、最近では富賀神社遙拝所といわれ、出征する時に富賀神社までおまいりにゆけない人がここでおまいりしたという話も残っている。また三幣神社は農業神であるともいわれ、現在は御笏神社の本殿に合祀されてしまっているが、村民には通称「三幣様」とよばれて崇敬が篤く、元社地にはシイの大木の根方に木造の小さい鳥居が一つ置かれている。元社地は御笏神社の東約100m、間川(まがわ)にのぞんだ海抜約65mのところの仲尾坂の対岸にあたる狭い尾根様になった地形の上にある。 三宅島式内社に関する歴史地理学的研究 森谷ひろみ |
南子神社 南子は美奈美古と読り○祭神詳ならず〇三宅島神着村に在す、今御笏明神と称す、(考証) 神社覈録 |