『三宅記』の三島大明神の第三の后神(佐伎多麻比当ス)が八王子を一度に産んだ時、「二番カ子」が加彌命であり、当社の祭神とする。 かみの宮、またはかみいの宮と称している。 この地が当初鎮座の地であるが、後に山の神の二宮神社へ移り、さらに、明治7年7月3日の噴火で、御笏神社の境内西の奥にへ遷座した。 カミ(イ)ノ社に鎮座していた頃は社殿を持たなかつたと考えられる。 ご案内頂いた島崎氏によると「環状道路を土佐林道方面へ暫く走ると直線になる。その辺から山に登ったが、枯れ木の大木があった。たぶん何処にあったか検討がつかないだろう。」とある。 佐藤源保「写真集三宅島の神社」(平成6年11月発行)には大木の下に紙幣と小鳥居が祀られた写真が掲載されているが場所は不明である。 |
かみ(い)の宮 二宮神社すなわち式内社加弥命神社の最も古い社地は「かみ(い)の宮」であるといわれているが、恐らく御鎮座当初の社地であろうと思わわる、他のいくつかの神社と共に明治7年7月3日の噴火にあい、当時まで辛うじて残っていたらしいお社も、火災に罹って二宮神社に合祀され、御笏神社の境内神社の一つとなり、やがてまた御笏神社の御本殿に完全に合祀されることとなったものである。 しかし現在でも島民の記憶の中には、「かみいの宮は御神徳の高い神様である。」ということだけは、非常に強く残っている。 「はちまき道路」から下馬野尾(げばのお)へ下るわかれ道の丁字路を、山側へ西−−西南方向に水平約400m(目測)ほど登ると、径約60m(スギの植林の下枝を落してないので見通しがきかす、目測も極めて困難であった)の爆裂火口様の旧火口が北東に向いて開いている。火口底はほぼ平らで、火口壁の高さは約7m(目測)、火口底にはスコリアがやわらかく積っていて、スギが植林されている。その火口底のほほ中央に、目通り約2m50(目測)高さ約15m(目測)、木ずえが噴火にあって枯れたような枯れ方をしているが、この島でもちよっと見かけない程のシイの大木がある。その大木のまわりには大枝の折れたものが落ちており、その範囲だけは植林されていない。高さ約10m(目測)のシイ、高さ約3m(目測)のツバキ、高さ約2mのタブなどが、下生えのように疎に生えている。 シイの大木の根元の北東を向いたほらに、地上部高さ20cm、幅18cmの細長い玄武岩の海礫が、長径を縦にするようにさし込んで立ててある、地下部が、もう20cmぐらいあるように見える。 三宅島式内社に関する歴史地理学的研究 森谷ひろみ |
加彌命神社 加彌は假字也○祭神明か也○在所詳ならず 神社覈録 |