萬葉集巻三の生石村主真人の歌に「大汝少彦名乃將座志都乃石室者幾代將経」と詠まれた静の石室が、静間村魚津に在る石窟と信じられている、この石室は、奥行十五間余、内部の最高の処で十三間余、横幅九間前後で、後方の岡を狭窓山という海辺の天然窟である。 「静之窟」は、出雲神話において大国主命と少彦名命が国づくりの際に石窟を仮住まいとしたという伝承がある。 |
静之窟 静之窟沿革 静之窟は『万葉集』巻二に「大なむち、少名彦のいましけむ志都の岩室は幾代経ぬらむ」(生石村主真人)と歌われ、大巳貴命、少名彦命の二神が 国土経営の際に仮宮とされた神話の洞窟である。 江戸初期まで洞窟の前には滝の前千軒という集落があったが、明暦2年(1656年)4月の大津波で一瞬にして海中に没したと伝えられる。 窟内は奥行き45m、横幅30m、高さ15mほどあり、中央に万葉歌碑が建てられている。 近くの垂水集落には、大巳貴命、少名彦命の二神を祀る静間神社がある。 大田市指定天然記念物 静之窟 一所 平成4年12月16日指定 静之窟は大田市静間町魚津の海岸にあって、古く石見地方の国造りに力をあわせて努力された大己貴命(大国主命)と少彦名命の二神の仮の住まいであったとの伝承があり、洞窟は奥行38m、幅18m、高さ16mに達し、洞底は清浄な海浜に覆われ、現在では波浪が直接侵入することはまれであろうと思われる。 門口は大小二箇所あるが奥で一つになった岩屋がある。 この岩屋を古くから静之窟といい伝えている。 洞内の内壁や天井には、主として軽石質の火砕岩が露出しており、ほぼ南北方向に走る節理もしくは小断層が何本か見られる。窟は、侵食に弱い部分がこれらの弱線に沿って選択的に侵食が進んだ結果生じた海食洞である。 中央には大正4年に万葉歌碑がたてられ、歌人生石村主真人が詠んだ「大汝少彦名のいましけむ志都の石室は幾代経ぬらぬ」(書は千家尊福)の歌碑(高さ3m)が建っている。「静之窟」の題字は徳川家達である。 社頭掲示板 |