立坂神社
たちさかじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】立坂神社 伊勢国 桑名郡鎮座

   【現社名】立坂神社
   【住所】三重県桑名市新矢田2-24
       北緯35度3分35秒,東経136度41分3秒
   【祭神】大日霊貴尊
       (配祀)武甕槌神 斎主神 天児屋根命 姫大神 木花咲夜比売神
       大山津見神 天目一箇神 神功皇后 応神天皇 玉依姫

   【例祭】10月19日 例祭
   【社格】旧県社
   【由緒】由緒不詳
       明治2年3月明治天皇御東幸の際当地に御駐賛
       明治17年5月県社
       明治39年12月15日神饌幣帛供進神社

   【関係氏族】
   【鎮座地】この地に矢田八幡宮として鎮座

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「矢田八幡宮」と称していた
   【社殿】神明造木造銅葺
       拝殿・神饌所・社務所・神樂殿・神馬舎・手水舎

   【境内社】子安稲荷神社・八天宮・菅原神社・御霊舎

光風中学校南に隣接。
『延喜式神名帳』に記載の立坂神社として『神名帳傍注』他に比地にあることを記載する。嘉永6年(1853)有楢川熾仁親王殿下御筆に成る立坂神社の奉額あり。明治2年3月聖上御東幸の際同月15日当地御駐輦あり、即日本社へ奉幣使を遣される。
元、矢田八幡宮と称していた。
安土桃山時代の慶長年間(1596年-1615年)、本多忠勝が矢田河原に軍を進めた際、その旗印に霊鳩が止まった。
忠勝は得難い祥瑞と考え、その後の戦いで勝利し、帰陣後、周辺住民に「当地に八幡はあるか?」と尋ねた。鳩は八幡神の神使。
当地の人は「西方にあり」と答えたという。後日、その地に改めて山城国石清水八幡宮を勧請、桑名八幡宮と称した。
この桑名八幡宮の創建は江戸時代初期の元和元年(1615年)とされる。その後、矢田八幡宮と改称され、当社は長らく矢田八幡宮と呼ばれた。
いつ矢田八幡宮が「立坂神社」と称するようになつたか、その経緯は明らかでない。


短刀 村正

有形文化財工芸品 短刀 村正 1口長さ30.4cm 反り0.4cm 室町時代後期
作刀は菖蒲造り、地鉄は板杢交(いたもくかが)り、柾がかる。
茎に「村正」銘が鑢にて消され底に二字銘が残存する。
 村正は全国屈指の銘工であるが旧幕時代徳川家に祟ると称されて各大名に帯刀禁止令が出された程、高名の刀匠である。
 尚奉納箱裏に「御葺替正遷宮に付」「献主竹内弥兵衛」と裏書されておる。

桑名市の指定文化財



縣社 立坂神社

祭神 大日霊貴命
合殿 矢凪八幡社
創建年代詳ならず、但し式内の桑各郡十五座中の一なり、神祇志料に云く、「立坂神社、今東方村南尾野山の立坂の上に在り、神明社と云ふ、按地検帳に立坂東立坂の字あり証とすべし」と附記せり。神社覈録は、「立坂は多知佐加と続り、祭神詳ならず」とし、或書によれば、「立坂神社、益生村大字矢田に在り、祭神は大日霊貴命にして、玉依姫命、誉田和気命、息長足姫命を合祀す、創建の年代未詳ならす、合殿祭は8月15日、大祭は10月19日、紀念祭は5月10日を以て執行す、境内に駒繋松と称する古松一株あり、里俗伝へ言ふ桑名の城主本多忠政出陣の時、其馬を此松に繋ぐ故に此名あり」と見ゆ、今大日本地名辞書に依りて地勢を稽ふるに、東方は今西方播磨汰上等を合同して大山田村と改称す、尾野山以西の山野にわたる、又尾野山は大山田村大字桑名に在り、矢田の北に接し、一の丘あり、丘北を大宇東方と曰ひ、民戸寺宇丘を圧す、而して矢田は、今益生村と改む、桑名町の西に接し一市街を成す、即ち神鳳抄に八太御厨とあるもの是なり、是に由りて見るときは、今の矢田村は往昔東方村の一部落に属するものに非ざるか、爾考ふべし、明治17年10月縣社に列せらる、其後明治41年四の宮及び一目連の両村社を合祀す。
社殿は本殿、拝殿、神楽殿、祭典具蔵庫、説教場等具備し、境内坪数578坪(官有地第一種)を有す。

明治神社誌料



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