中臣神社
なかとみじんじゃ
桑名神社 に合祀
所在地 社名















   【延喜式神名帳】中臣神社 伊勢国 桑名郡鎮座

   【現社名】桑名神社に合祀
   【住所】三重県桑名市本町 46
       北緯35度3分55秒,東経136度41分40秒
   【祭神】春日四柱神
   【例祭】
   【社格】
   【由緒】神護景雲3(769)常陸鹿島社より建御雷神霊が通過の跡に建立
       正応2年桑名神社の境内に遷
       永仁4年(1296)春日4柱を勧請合祀
       明治14年県社

   【関係氏族】中臣氏
   【鎮座地】古くは桑名神社より20町余も隔つた西の方の山上にあつた
        正応年中に桑名神社の境内に遷

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「春日大明神」と称していた
   【社殿】
       

   【境内社】

伊勢国造、中臣伊勢連の氏人が創祀した社であると思われる。
古くは桑名神社より20町余も隔つた西の方の山上にあつたといわれるが、現在その位置は明らかでない。
正応年中に桑名神社の境内に遷し、永仁年中に同じ御殿内に奈良の春日の四柱の神等を勧請して合祀してから、春日大明神と称するようになつた。


由緒

桑名神社(三崎大明神)
例祭 八月十七日 比与利祭
御祭神 天津彦根命:天照大御神の第三御子で御子孫が殊に御繁栄
天久々斯比乃命:神徳霊妙にて、上代の桑名地方豪族の祖神
中臣神社(春日大明神)
例祭 九月十八日 御車祭
御祭神 天日別命:神武天皇御創業時の功神で、伊勢国造の遠祖
相殿 春日四柱神
建御雷神:日本国土奉還という重大な使命を自ら進んで果たされた武力・外交とも優れた神
斎主神
天児屋根命:中臣氏(後の藤原氏)の祖神で、祭祀や朝政に優れた神
比売神:右の妃神
桑名宗社縁起 延喜式内桑名神社
中臣神社
桑名宗社とは桑名神社(三崎大明神)と中臣神社(春日大明神)の両社を称し、古来桑名の総鎮守で、桑名首(おびと)の祖神を祀っているので、桑名宗社と言う。
桑名神社は平安時代、延喜式神名帳にその名の見える古社で、御祭神は天照大御神の第三御子、天津彦根命と、この大神の御子天久々斯比乃命の二柱である。天津彦根命は国史にも見えた様に御子孫の殊に御繁栄になった神であり、また天久々斯比乃命は神徳霊妙な神で、桑名首(上代桑名地方の豪族)の祖神であるので一郡の開祖として仰がれ、その子孫は代々祖宗の御社に奉仕し大化の改新後も郡司となって当地を支配した。景行天皇の御代にはすでに三崎大明神として崇められたりと記録があり古来桑名の地主神として、また郡府の宗社として崇敬極めて篤い御社である。
古記録によれば、往古は現在の桑部村にあったが、景行天皇40年(110)には既に宮町あたりに鎮座して三崎大明神と称せられ、その後宝殿町あたりに遷座されるも、幾程もなく同45年現地へ奠められた。
また中臣神社は神護景雲3年(769)常陸国鹿島社より建御雷神霊が御通過になった基址に祀られたと記録があり、その地は上野村と言われる。
中臣神社も延喜式内社で、御祭神天日別命は神武天皇御創業の時の功臣で伊勢国造の遠祖として仰がれる。古くは現地より西方へ二十町余も隔たった山上にあったのを、正応2年に桑名神社の境内へ遷し奉り、永仁4年に奈良春日大社から春日四柱神を勧請合祀してからは春日大明神春日さんと呼ばれるようになった。これより御社は繁栄の一途をたどり足利時代には幕府より三丁掛にて八百石、上之輪村に三百石の神領を寄進、応永2年・永正6年・天文20年と遷宮があり、永禄10年には吉田家より一の宮(それぞれの国で第一の資格を持つ神社)として許可された。永禄12年には織田信長より神領の寄進、天正年間には長島城主にて桑名をも兼領した滝川一益が社殿を造営した。
江戸時代に入ると将軍・藩主の崇敬いよいよ深く、慶長六年、徳川家康より神領百石の寄進をはじめ、本多忠勝・忠政、松平定綱など歴代の桑名城主から次々と社領・営繕の寄進を受けた。明治になってからも元年の御東行、2年の東京遷都と、共に天皇・勅使がお泊りになるなど崇厳を増し、明治14年には県社に列せられた。また明治39年には三重県告示にて神饌幣帛供進指定社となった。
焼失前の拝殿は文化年間、楼門は天保年間に、いずれも桑名城主より造営されたもので明治25年の大改造では諸戸清六より玉垣奉納を受けるなど社貌を一新、荘厳な一大社となったが惜しくも昭和20年の戦災ですべて焼失した。
敗戦と焼土の中にあっても氏子崇敬者の深い理解により昭和29年に拝殿が、そして59年には本殿・幣殿が、それぞれ立派に再興され、さらに平成7年の春日神勧請七百年祭には記念事業として楼門再建計画が立案されている。
春日神社の石取祭 昭和56年3月30日 三重県指定無形民俗文化財指定
石取御神事は、桑名神社の大祭前期桑名祭(比与利祭)の中の一神事であったのが、宝暦年間(1750年代)に分かれたものである。
比与利というのは、この祭を行なうために桑名市南郊の町屋川へ行き、禊祓し石を運ぶ途中ヒョウリヒョウリと笛を吹き謡ったのから起こって遂にヒヨリ祭という様になったのであろう。
この名の起源については、他に説があって表裏の意とも、日和の意とも、干下りとも、又は伊勢物語に右近の馬場のヒヲリの日とあるヒヲリとも種々あって一定しない。
比与利祭は、石取神事、流鏑馬(やぶさめ)神事、ねり物神事などを合わせたものであり、その起源については、
石占(いしうら)の説
石によって神意を占う習俗で石を持ってみて重く感じたり軽く感ずるのにより神意を判断したり、石を投げて落ちる状態により、これを占う。
社地修理の説
神社の地は、海川が近く地が低いので、納涼のはじめに氏子のものが町屋川より石を拾ってきて社地に敷き施したが、七夕の行事と合して、だんだん盛んになった。
流鏑馬の馬場修理の説
比与利祭に流鏑馬神事を行うので、その馬場を修理するために町屋川より石を運んだのが始まりである。
以上の諸説があるが、氏子が町屋川で禊して清浄の栗石を運んで社地に敷くのは単なる低湿の社地や馬場を修理するためのみではなく、私たちの祖先は石を生きて生長するものと考え、永遠性を認めたので、神霊の憑依(うつる)すべきものとの信仰を持っていた。桑名の氏人の祖先を祭るために祭場を設け神を迎える準備をするのが石取祭である。
即ち、比与利祭を行うために石取をして、石取をしてはじめて比与利祭を行い得ると言える。
また、石取御神事本楽日に先立ち、各町では町屋川へ行き、清流に禊して拾い採った清浄な栗石を奉納し、試楽日午前十時より献石神楽が行われる。この石は数百年来奉納しているが、その数が今に増えないのは神異の一として世に宣伝するところである。古来この石を拝受して祀るもの、商売繁昌に家内和合に安産に霊験著しく、必ず報賽(お礼まいり)に石を返納する習わしとなっている。
「春日神社の石取祭」は北勢地方の最大の夏祭りとしても有名である。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




桑名神社

桑名神社
(三崎大明神)
例祭8月17日
比与利祭
御祭神
 天津彦根命
  天照大御神の第三御子で御子孫が殊に御繁栄
 天久々斯比乃命
  神徳霊妙にて、上代の桑名地方豪族の祖神
中臣神社
(春日大明神)
例祭 9月18日
御車祭
御祭神
 天日別命
  神式天皇御創業時の功神で、伊勢国造の遠祖
相殿 春日四柱神
 建御雷神
 斎主神
  日本国土奉還という重大な使命を自ら進んで采たされた武力・外交とも優れた神
 天児屋根命
  中臣氏(後の藤原氏)の祖神で、祭紀や朝政に優れた神
  比売神 
   右の妃神
久波奈名所図会より 『桑名宗社往古図」(右)
          『御車祭之図」(左)
桑名宗社縁起
延喜式内
 桑名神社 中臣神社
御鎮座地 三重県桑名市本町四六番地
桑名宗社と桑名神社(三崎大明神)と中臣神社(春日大明神)の両社を称し、古来桑名の総鎮守で、桑名首(おびと)の祖神を紀っているので、桑名宗社と言う。
桑名神社は平安時代、延喜式神名帳にその名の見える古社で、御祭神は天照大御神の第三御子天津彦根命と、この大神の御子天久々斯比乃命の二柱である。天津彦根命は国史にも見えた様に御子孫の殊に御繁栄になった神であり、また天久々斯比乃命は神徳霊妙な神で、桑名首(上代桑名地方の豪族)の祖神であるので一郡の開祖として仰がれ、その子孫は代々祖宗の神社に奉仕し大化改新後も郡司となって当地を支配した。景行天皇の御代にはすでに三崎大明神として崇められたりと記録があり古来桑名の地主神として、また郡府の総社として崇敬極めて篤い御社である。
古記録によれば、往古は現在の桑部村にあったが、景行天皇40年、(110)には既に宮町あたりに鎮座して三崎大明神と称せられ、その後宝殿町あたりに鎮座されるも、幾程もなく同45年現地へ奠められた。
また中臣神社は神護景雲3年(769)常陸国鹿島社より建御雷神霊が御通過になった基址に祀られたと記録があり、その地は上野村と言われる。
中臣神社も延喜式内社で、御祭神天日別命は神武天皇御創業の時の功臣で伊勢国造の遠祖として仰がれる。古くは現地より西方ヘ二十町余も隔たった山上にあったのを、正応2年に桑名神社の境内へ遷し奉り、永仁4年に奈良春日大社から春日四柱神を勧請合祀してからは春日大明神春日さんと呼ばれるようになった。これより御社は繁栄の一途をたどり足利時代には幕府より三丁掛にて八百石、上之輪村に三百石の神領を寄進、応永2年・永正6年・天文20年と遷宮があり、永禄10年には吉田家より一の宮(それぞれの国で第一の資格をもつ神社)として許可された。
永禄12年には織田信長より神領の寄進、天正年間には長島城主にて桑名をも兼領した滝川一益が社殿を造営した。
江戸時代に入ると、将軍・藩主の崇敬いよいよ深く、慶長六年、徳川家康より神領百石の寄進をはじめ、本多忠勝・忠政、松平定綱など歴代の桑名城主から次々と社領・営繕の寄進を受けた。明治になってからも元年の御東行、2年の東京遷都と、共に天皇・勅使がお泊りになるなど崇厳を増し、明治14年には県社に列せられた。また明治39年には三重県告示にて神饌幣帛供進指定社となった。
焼失前の拝殿は文化年間、楼門は天保年間に、いずれも桑名城主より造営されたもので、明治25年の大改造では諸戸清六より玉垣奉納を受けるなど社貌を一新、荘厳な一大社となったが惜しくも昭和20年の戦災で全て焼失した。
敗戦と焼土の中にあっても氏子崇敬者の深い理解により昭和29年に拝殿が、そして59年には本殿・幣殿が、それぞれ立派に再興され、更に平成7年の春日神勧請七百年祭には記念事業として楼門再建計画が立案されている。
春日神社の石取祭
昭和56年3月30日 三重県指定無形民俗文化財指定
石取御神事は、桑名神社の大祭前期桑名祭(比与利祭)の中の一神事であったのが、宝暦年間(1750年代)に分かれたものである。
比与利というのは、この祭を行うために桑名市南郊の町屋川へ行き、禊祓し石を運ぶ途中ヒョウリヒョウリと笛を吹き謡ったのから起こって遂ヒヨリ祭という様になったのであろう。
この名の起源については、他に説があって表裏の意とも、日和の意とも、干下りとも、又は伊勢物語に右近の馬場のヒヲリの日とあるヒヲリとも種々あって一定しない。
比与利祭は、石取神事、流鏑馬(やぶさめ)神事、ねり物神事などを合わせたものであり、その起源については、
一、石占(いしうら)の説
石によって神意を占う習俗で石を持ってみて重く感じたり軽く感ずるのにより神意を判断したり、石を投げて落ちる状態により、これを占う。
二、社地修理の説
神社の地は、海川が近く地が低いので、納涼のはじめに氏子のものが町屋川より石を拾って来て社地に敷き施したが、七タの行事と合して、だんだん盛んになった。
三、流鏑馬の馬場修理の説
比与利祭に流鏑馬神事を行うので、その馬場を修理するために町屋川より石を還んだのが始まりである。
以上の諸説があるが、氏子が町屋川で禊して清浄の栗石を運んで社地に敷くのは単なる低湿の社地や馬場を修理する為のみではなく、私たちの祖先は石を生きて生長するものと考え、永遠性を認めたので、神霊の憑依(うつる)すべきものとの信仰を持っていた。
桑名の氏人の祖先を祭るために祭場を設け神を迎える準備をするのが石取祭である。
即ち、比与利祭を行う為に石取をして、石取をしてはじめて比与利祭を行い得ると言える。
また、石取御神事本楽日に先立ち、各町では町屋川へ行き、清流に禊して拾い採った清浄な栗石を奉納し、試楽日午前十時より献石神楽が行われる。この石は数百年来奉納しているが、その数が今に増えないのは神異の一として世に宣伝するところである。古来この石を拝受して祀るもの、商売繁昌に家内和合に安産に霊験著しく、必ず報賽(お礼まいり)に石を返納する習わしとなっている。
「春日神社の石取祭」は北勢地方最大の夏祭りとしても有名である。
桑名の石取祭は、特有の三輪祭車の上部に山形十二張の提灯を飾り、(一に一年12ヵ月を表すとも伝えられる。また人形・屋形の形式もある。)
後部には鉦鼓を取りつけて囃す天下の奇祭で、江戸時代初期の慶長年間にすでに石取の記録が見られる。現在では8月第一日曜本楽、前日試楽の日程で全市街拳げて行われる。この祭の特徴はその独特な囃子にあり径2〜3尺の大太鼓一個と径1尺3寸位の鉦4〜6個で囃す。五ッ拍子・七ッ拍子に大別され、老若男女を問わず打ち興ずる光景はまさに勇壮無比、血湧き肉踊るの感がある。
試楽日は午前零時の神楽太鼓を合図に一斉に叩出し(暁に至り休憩)、夕刻より各組内(裏面地図参照)を曳廻す。また午前10時より各町役員が参列して献石神楽が行われる。
本楽日は午前2時の叩出し(暁に至り休憩)を経て、午後になると各町とも整列定位置へ祭車を練込み、いよいよ夕刻より祭の最高潮、渡祭が始まる。整列路は南北隔年、午後4時半に花車(一番車)が曳出され、6時半より渡祭。御神火が順次受け継がれ、優美絢燗の祭車が灯火に夜空を焦がしつつ蜿蜒半里に亙り行進する状は宛も一幅の名画である。渡祭後は第一組内を廻り田町交差点にて午後10時頃曳別れ(解散)となるが、これも宗社神前渡祭と並んで『名場面』である。
祭車は当初小さな荷車のようなものに注連縄を張り笹を立てて石を運んでいた物が、やがて美麗な三輪祭車へと発展し、現在では各祭車とも彫刻・幕・金具・塗りと、趣向を凝らし、妍美を競い、全祭車43台の中には百数十年を経たもの、古今の一流作者に意匠されたもの等、芸術的価値も高く、また永く庶民の文化遺産として受け継がれている。
青銅鳥居
「勢州桑名に過ぎたる者は銅の鳥居に二朱女郎」と歌われた日本随一の青銅鳥居で、神社境内から東方25mの所、片町通に面して立っている。寛文7年(1667)、桑名城主松平定重が寄進、慶長金250両を費し鋳物師辻内種次に命じて建立させたもので、桑名の名物として今も昔を語っている。
(昭和40年12月県文指定)
桑名宗社御膳水井
この御膳水井は江戸中期より神供用として用いられていたが、明治元年9月25日、明治天皇が桑名にお泊りの際、水質が市内で最良の故に御膳水として供された。その後市民の飲料水に解放され、産湯から日々の飲料水に至るまで、この井戸の恩恵を受けること多大であった。清洌な神水は今もなお滾々と湧出し尽きるときがない。
(昭和47年5月市文指定)
楼門
天保4年(1833〉、松平定永によって寄進された三間一戸・重層入母屋造りの楼門で、正面左右には左大臣・右大臣、裏側には金剛力士像が安置され、その姿の美しさは日本一と言われたが、昭和20年の空襲により惜しくも焼失した。(現在再建計画中)
総合結婚式場儀式殿
桑名総鎮守として崇敬の中心となっております桑名宗社は、子々孫々の繁栄を祈り幾久しく幸多かれと願うお二人様の人生最大の式典の場として最もふさわしい聖域です。
金竜桜
金竜桜は若葉が赤褐色、花が白に近い淡紅色、一重と八重との咲き分けで、八重の優れた一品種である。この名木は、桑名城主松平定綱公が摂津国(大阪府)古曾部の金竜寺の原木から分植したものの一つである。
陽石
拝殿に向かって右側の玉垣内に1.8mの岩石あり。これを陽石または一説に夜泣石とも伝えている。終戦前まではこの陽石を前にして高さ約3m、周囲約3.5m程の空洞になった楠の枯木があって、その前面は大きく割れて、性器崇拝の神木として参詣する者が多かった。玉垣内の栗石を拾って楠の上部へ投げ、石がうまく乗ると吉、外れると凶とした。
安南国書(社宝)
弘定12年5月6日、安南(ベトナム東南部)国王から日本長崎の監軍長谷川左兵衛丞藤広に贈った書状である。
(旧重要美術品)

由緒書



桑名宗社

桑名宗社とは桑名神社と中臣神社の両社をあわせた名称であり、古来桑名の総鎮守として桑名首(くわなのおびと)の祖神を祀っています。
桑名神社は平安時代、延喜式神名帳にその名の見える古社で、御祭神は天照大御神の第三御子天津彦根命と、その大神の御子天久々斯比乃神の二柱です。天津彦根命は国史にも見えた様に御子孫の殊に御繁栄になった神であり、また天久々斯比乃命は神徳霊妙な神で、桑名首(上代桑名の豪族)の祖神であるので桑名の開祖として『繁栄の神様』と仰がれています。
中臣神社も延喜式神名帳にその名を見える古社であり、桑名神社と共に延喜式内社とされています。中臣神社は神護景雲3年(769年)に常陸国鹿島社(茨城県の鹿島神宮)より建御雷神霊が御通過になった基址に祀られるようになりました。御祭神天日別命は神武天皇御創業の時の功臣で伊勢国造の遠祖として仰がれ『厄除けの神様』とされています。中臣神社は山上にありましたが、正応2年(1289年)に桑名神社の境内に遷し奉り、永仁4年(1296年)に奈良春日大社から春日四柱神を勧請合祀してからは「春日さん」と呼ばれています。
その後、御社は繁栄の一途をたどり、織田信長・徳川家康などより神領の寄進、本田忠勝・松平定綱などの歴代桑名城主から篤く崇敬され、明治になってからも元年の御東行・2年の東京遷都と、共に天皇・勅使が御泊りするなどされました。このような崇敬篤く、荘厳な一大社となりましたが惜しくも昭和20年の戦災で全て消失してしまいました。しかしこの敗戦と焼土の中にあっても氏子崇敬者の深い理解によって立派に再興されるに至っています。

公式HP



中臣神社

中臣は奈加等美と訓べじ、○祭神天児屋命〇桑名三崎町三崎社相殿に在す、今春日大明神と称す、(考証、俚諺)○続日本紀、天平神護2年12月癸卯、外從五位下中臣伊勢連大津賜姓伊勢朝臣、

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