神館神社
こうだてじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】野志理神社 伊勢国 桑名郡鎮座

   【現社名】神館神社
   【住所】三重県桑名市大字江場 1441
       北緯35度3分19秒,東経136度40分57秒
   【祭神】天照皇大神 豊受大神、倭姫命、大山祇神、火産霊神
   【例祭】2月17日近い日曜日
   【社格】旧郷社
   【由緒】垂仁天皇17年9月13日の草創
       明治14年9月28日郷社に列

   【関係氏族】
   【鎮座地】

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【公式HP】 神館神社
   【社殿】本殿
       拝殿・社務所

   【境内社】鏡ケ池社・宗霊社

第11代垂仁天皇17年9月、大神が桑名郡野代宮へ遷幸の際、御休泊所として、神館が建てられ、その旧跡に御厨神社として、当社が創建されたという。


由緒

三重県桑名市大字江場字神戸鎮座神館神社はもと伊勢大神宮の御領たりし桑名神戸の御館神明社にして神宮とは極めて深き御縁故を有せらるる所の神社なり、抑も神戸とは土地人民を挙げて神宮の御領たりしものの謂にして平安朝中期の編纂にかかる延喜式の内の大神宮式によれば当時神宮の神戸は其郡を挙げて神宮の神戸たりし神三郡即ち伊勢の南部に位せる度会、多気、飯野の三郡以外伊勢、大和、伊賀、志摩、尾張、参河、遠江の7ヶ国に亘り353戸に及べり而して其内伊勢に於ける桑名郡の神戸は五戸を算せり、此等の神宮の神戸には本神戸と新神戸とあり、本神戸とは皇大神宮御鎮座の古へに於て各地の国造などが貢進せるものにして、新神戸とは其の以後の寄進にかかるものを称せり、桑名神戸は即ち本神戸にして垂仁天皇の御宇皇女倭姫命が大御神の鎮まり坐さむ大宮地を覓めて各地を巡り坐しし時、桑名の野代の宮に於て伊勢国造の遠祖建夷方が進め奉りし所なり、桑名神戸と神宮との関係実に斯の如く古く、従て其神戸の神税徴納其他一般事務を執行したる所謂神館の地に奉祀し来れる本社も亦極めて悠久の御由緒を有し給ふことを知るべきなり
本社は近世に至り若宮の御社号を以て一般に称へ奉ることとなりたれど、正しくは神館神明宮神館明神等と称へ奉りしこと桑名誌、桑名名所図会、桑名名所志、勢桑見聞略抄、桑名雑誌等の諸書に依りて知らるるのみならず、今神社に所蔵する天文22年刀工村正奉納自作刀剱の銘、享保五年本殿御造営棟札銘、宝暦四年奉納鰐口銘、明和五年寄進神楽釜銘、及び額面の文字等にも明記する所なり、而して桑名誌に別所、蓮華寺、稗田、上野、太夫、西方、東野、本願寺、江場、赤須賀、矢田、大貝洲、小貝洲、大福、安永、和泉、福江の十七村に互る地域を総て神戸岡と称すと云い又桑名府名勝志に安永、大福、江場三村の田畠に神戸 寺前、御墓、釈迦堂、十王堂安養院等の古字名を存せる由を記せり、依て思うに桑名神戸の中心地は安永、大福、江場に亘る地域なりしが如く考へ得らるるなり 猶ほ桑名神戸の位置を立証すべきものは旧大福田寺の所在是なり、大福田寺は今桑名東方にあれど、もとは市の南端大福村の地にありしものにて江戸時代初期萬治五年に至りて今の地に移建せりと云ふ其寺名を大福田寺と称せるもの亦蓋し地名大福に因れるなるべし此の寺の草創年代に就ては今同寺に蔵する国宝文亀元年沙門叡 の勧進帳に後宇多天皇の御宇額田部実澄が大神宮の神託により忍性菩薩と共に之を建つと云へり而して此の勧進帳の首に「請特 十方檀越御助成造立勢州桑名郡神戸郷大福田寺並に本尊祈天下泰平国土豊饒朝儀安全諸民快楽之状」とあるにより大福附近の地が当時桑名神戸の内にありしこと明瞭なりとす、なほ桑名神戸が額田部実澄の祖先門鎌の開発するところなることも亦勧進帳に記せり、今桑名郡の西南端に在良村額田あり、是れ和名抄の所謂桑名郡の額田郷の地にして延喜式内なる額田神社も亦此の地に坐せり、要するに額田部氏は大和より来りて早く此の地に土着し後東下して今の桑名市の南方に移り桑名神戸の地を開拓せるものにして大福田寺は即ち其の氏寺たりしものなるべし
桑名郡の地は皇大神御巡幸の御順路に当り、美濃国の伊久良河宮より南下して伊勢国に入り坐し、桑名郡野代宮に暫し奉斉せられ給ひしこと、皇大神宮儀式帳及び倭姫命世祀に載せて隠れなき御事なるが諸国に於ける御巡行の聖跡が多く神戸等の地と密接の関係あるにより御坐清直翁は今の桑名市内なる本社神館神社の地を以て当年に於ける桑名野代宮の聖跡なりとし、又延喜神名式なる野志里神社の古来の社地も亦本社の地なりと断じ、栗田寛博士の神祇志料及び内務省編纂にかかる特選神名牒等皆之を襲へり、然れば本社は啻に桑名神戸の神館神社たるに止らず、皇大神巡幸聖蹟桑名野代宮御宮地にして、又式内野志里神社の御社地なり、茲に於て本社の御由緒は更に数段の重きを加へ給ふものと謂ふべきなり
本社の宝物中に獅子頭二頭あり、是れ往古御頭舞に用ひしものにして製作頗る古撲、銘に「益田庄内平朝臣野部次郎左衛門尉実吉(花押)永享七年乙卯十二月三日」とあり、今桑名市内に入れる太夫村は所謂伊勢太神楽と称して各地を巡行せる獅子舞の発祥地なるが其巡業の際は必ず本社に参拝し、本社の社頭より出発するを例とせりと云ふ、而して本社にかくの如き永享在銘の古獅子頭を蔵するに依て推せば此地方に於ける御頭舞の起源が室町時代以前に遡るものたることを知るなり。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




神館神社

「本社は天照皇大神、大和より御巡幸のみぎり、奉斎せられ給し社なり」と伝えられ、伊勢神宮の御領であった、桑名神戸の御明神として、神宮と深い縁故をもっています。近世になって、若宮さんとよばれ親しまれていますが、正しくは神館神社(こうたてじんじゃ)と称します。江場村は旧来神戸岡と称する地域内で古伝によれば、垂仁天皇十七年九月大神が桑名郡野代宮へ遷幸の際、御休泊所として、神館が建てられ、その旧跡に御厨神社として、当社が創建されたといわれています。伊勢大神楽獅子舞の発祥地である、市内大夫村が巡業に出る際は、必ず本社に参拝し、社頭から出発するのを例としたといわれていて、獅子頭が江戸中期に奉納され、神宝となっています。

公式HP



神館神社

由諸概略 当神社は垂仁天皇の皇女倭姫命天照皇大神の神霊を奉載して大和を発し伊賀、近江、美濃、尾張、三河、遠江を経て垂仁天皇14年秋9月朔日伊勢の国に入り給ひて同26年渡会郡五十鈴の河上に卸遷幸の途次一時奉齋せられける処の旧蹟にして後此の地は神宮の神領となり神戸を置かる而して文治元年9月神宮より政庁を設け近郷の神領を所管せしむ之を神痔或は神館と云ひ毎年御神酒四石八斗副米九斗祭料並造酒米一石稲束東小机二十面を神宮へ納めしむるものなりしを以て後の神館に天照皇大神豊受姫命を奉齋しありしか正中年間之を廃止せられたるにより奉斎なりし大神を 祭神として名を神舘神社と称して一般の神社となし江場新地鍋屋町西組掛樋浅川東川岸町福江町北区御の産土神と崇め神鳳山大福田寺別当たり

社頭掲示板



神館神社

古代に神宮鎮座の地を探して倭姫命が大和・伊勢を巡幸した時、ここに休憩所として舘が建てられ、神宮が伊勢に定まった後、神領の神明社として舘後に神舘神社が創建されたといわれ、神舘神明宮・神舘明神とも称される。
神宝として、永亨7年(1435)の銘がある獅子頭(県指定文化財)桑名の焼きものの草分け的存在である信行作で貞享4年(1687)の銘のある鉄釉萄花文御神酒壺(市指定文化財)と宝永元年(1704)銘の狛犬、桑名の刀工村正の作で天正22年(1553)の銘のある剣と太刀(市指定文化財)など、貴重な文化財が納められている。
平成9年桑名市教育委員会

社頭掲示板



神館神社

かんたちじんじや 三重県桑名市江揚(旧字神戸)。旧郷社。祭神は天照皇大神・豊受姫命・倭姫命。もと神館神明社と称す。社伝によれば垂仁天皇17年の草創という。
天照大神の伊勢神宮鎮座にあたり、伊勢国桑名郡野代宮に一時とどまり給うたという『皇太神宮儀式帳』『倭距命世記』の記事によるもので、その旧跡は当所であり、当社は延喜式内社の野志里神社にあたるとするが、異論もある。神館とは神痔とも書き、伊勢神宮の神領支配に関する事務所、あるいは神供の調進所という意味であったが、ついには神領そのものの意となり、後には御厨とも称されるようになる。従って神館の社名は、伊勢神宮の神領と密接なかかわりをもつ当社の由緒を物語るものであろう。
例祭は10月13日で、伊勢太神楽が行われる。社宝の獅子頭(二頭)は県文化財に指定される。

神社辞典



郷社 神館神社

祭神 天照大御神 火産霊神 大山祇命
垂仁天皇17年9月13日の草創なり、倭姫世紀に、垂仁天皇14己巳秋9月1日、伊勢國桑名郡野代宮に遷幸し、斎き奉ること四年、次いで鈴鹿奈具波志忍山に神宮を造り奉り、六ケ月此に奉齋す、此時遷幸の御道筋御休泊の処々に神舘を建てさせらるる由見ゆ、故に天照大御神及び倭姫命を祀り、其後豊受姫命を勧請す、社傅によれば、当社所在の小字を神戸と云ふは猶桑名神戸河曲神戸鈴鹿神戸飯高神戸と云ふが如しと、神祇志料に「野志里神社、今神戸郷江場村にあり、神明宮と云ふ、垂仁天皇御代、倭姫命、大神を頂奉りて桑名野代宮に坐す、蓋是也」とあり、神社覈録に「野志里神社、野志里は假字也、和名鈔(郷名部)野代(乃之呂)、祭神詳ならず、野代郷大鳥居村に在す」とし、尚倭姫世記を引いて、「垂仁天皇14年乙巳、遷幸于伊勢國桑名野代宮、四年奉斎、于時國造大若子命(一名大幡主命)参相御供仕奉、国内風俗令白支云々、連胤按ずるに、当社は国造大幡主命を祭れるにもやあらん、考証の説論ずるに足らず」と付記し、神名帳考証には@「野志里神社、今在野代郷大鳥居村、野槌乎、志里知也、猶如大己貴名八洲篠佐乃富同神、」とありて、神社覈録とは所在を異にす、然るに勢陽雑紀に、「野代宮に垂仁天皇の時、天照大神尾張国中島宮より桑名に遷幸、此に暫らくましまして、次に鈴鹿郡忍山に遷幸し給ふ、桑名府の乾程一里に在り」と見え、大日本地名辞書には@「野代の東に大宇大鳥居あり、多度神の門址なりと云ふも、或は野代宮の門址にや」とあり、尚延暦儀式帳及び倭姫世記に桑名野代宮とあるを見れば、野代は此地一帯の郷名にして、或は郷名に因みて当社を然か呼びしものに非ざるか、尚ほ後の考証を挨つ、明治14年9月28日郷社に列せらる、同41年中同村淺川神社並火産霊社を合併す。 社殿は本殿、覆殿、拝殿、廻螂等を具へ、境内坪数990坪(官有地第一種)を有す。
宝物に獅子頭二個あり、昔時高倉院天皇の御奉納にして、春日又は安阿彌の作と云ひ、口碑に三重郡椿尾に在し椿樹を以て彫刻せしものなりと云ふ。

明治神社誌料



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