社名は所在地が和名抄に「桑名郡野代」の郷とあるによつていると思われる。 肱江川南岸。線路の東に接してある。 倭姫命が天照大神を奉じて美濃の伊久良河宮から尾張中島宮にお移りになり、さらに御船に乗られて桑名郡野代宮にお着きになり、四年間この地で奉齋になり、国造大若子命が参じ相共にお仕えしたのがこの地という。 近世は春日と称していた。比定に異論はない。 境内に長島一揆の犠牲者とも関が原の合戦の敗者とも諸説伝わる千人塚がある。 |
野志理神社 野志里神社は延喜式(905年編さんの書物)に名を列ねる古社で、皇太神宮御遷座の旧跡です。 倭姫世紀(やまとひめのみことのせいき)という古典によると、垂仁天皇は、皇女姫命を御杖代(みつえしろ)と定められ、姫は天照大神(あまてらすおおみかみ)の御神霊と御神璽(ごしんじ)をお持ちになり、新たに清浄な御鎮座の土地を求めて、大和の笠縫邑(かさぬいのむら)を離れられた。この後、伊賀・近江・美濃・尾張などの各地を御巡幸、この伊勢国の野代の里に御還御されたと伝えられています。 その旧跡が、この野志里神社だといわれていますが、その時代にはもう少し山寄りてあつたと考えられます。 さて、ここに お祀りして四年、宇治の土公の祖(おや)、太田命(おおたのみこと)が地相を占い、「五十鈴の川上に霊地があります。御先導申し上げます。」と奏(そう)し、姫はこれを聞き入れ、現在の伊勢市宇治に御到着になり、ここに御神域と御神殿を整え、皇太神宮として奉祀することになりました。 こののち、大鹿島命が祭主となり、倭姫命は斎宮となられて、奉仕されるようになりました。 多度町教育委員会 1990年3月 社頭掲示板 |
野志里神社(のじりじんじゃ) この神社は約2030年前、倭姫(やまとひめ)が天照大神を永遠にお祀りする地を求めて各地を旅されました。 その時、天照大神をお祀りした旧跡です。 お祀りしている間、人々は倭姫命から農業、織物、治水など色々な事を学びました。 そして4年が経った時、もっと良い地を求め伊勢へ旅だたれました。そこが今の伊勢神宮です。 野志里神社は天照大神を一時的にお紀りしましたので元伊勢とも呼ばれます。 のしろおたから発見隊 社頭掲示板 |
野志里神社 野志里神社は、天照皇大神遷座の御旧蹟にして人皇十代崇神天皇6年皇女豊鋤入姫命を御杖代となし 皇大神を大和国笠縫邑に奉斎し給ふ33年の後諸国御巡幸大宮所を覚めさせ給ひしが斯くて垂仁天皇14年9月1日皇女倭姫命 大神を奉載し伊勢国桑名野代の宮に遷幸奉斎四年爾後伊勢国各地を経させられゝ天皇26年伊須々河上に御遷幸大宮所を奠め給ふ今の内宮即ち是なり仍て当社を野代の大宮と称へ奉る 社頭石碑 |
野志里神社 野志里は假字也、和名鈔、(郷名部)野代、(乃之呂)○祭神詳ならず○野代郷大鳥居村に在す、(考証、俚諺)○倭姫世記云、垂仁天皇14年乙巳、遷幸于伊勢国桑名野代宮、四年奉齋、于時國造大若子命、(一名大幡主命)参相御共仕奉、國内風俗令白支、云々、 連胤按るに、当社は国造大幡主命を祭れるにもやあらん、考証の説論に足らず、 神社覈録 |