多度川を背にした平地。街中に鎮座する。河の南岸に接している。 この地は尾津別の本拠地 倭建命が大和から御東征の時尾津崎に立ち寄られ松の木の下で食事をされ、松の木に太刀をかけて置き忘れて立ち去られましたが、その後征戦を終えられての帰途此の地に立寄られた時松の木にかけた剣が失はれず、そのままかかって居るのを御覧になって感激のあまり御歌をよまれたと伝。 |
尾津神社 戸津区の氏神様 尾津神社に祀られている御祭神は倭建命、稚武彦命、足鏡別命、品陀和気之命(応神天皇)、宇賀魂神(稲荷様)、天照大神以上六柱と伝えられております。此の氏神は今から1077年前、醍醐天皇の延喜5年藤原時平が勅命を受けて、日本全国の名のある神社を調べ神社台帳に記載され(これを延喜式神名帳と言う)尾津神社はその時小社となって居り、天照大神の御子天津彦根命をお祀りした多度神社は大社でありました。 尾津と言う所は倭建命が大和から御東征の時(静岡県の焼津付近)尾津崎に立ち寄られ松の木の下で食事をされ、松の木に太刀をかけて置き忘れて立ち去られましたが、その時もう一振の太刀を持って居られたのが伊勢神宮で伯母倭比売命から貰い受けた剣で、現在名古屋の熱田神宮に祀られている草薙の剣であります。その後征戦を終えられての帰途此の地に立寄られた時松の木にかけた剣が失はれず、そのままかかって居るのを御覧になって感激のあまり御歌をよまれたのが古事記にある次の歌であります。 尾張に直に向える 尾津前なる一つ松吾兄を 一つ松 人に在りせば 太刀佩けましを衣着せましを 一つ松吾兄を 尾津崎は斯うした歴史ある所であります。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
神社由緒 戸津区の氏神様 尾津神社に祀られている御祭神は倭建命、稚武彦命、足鏡別命、品陀和気之命(応神天皇)、宇賀魂神(稲荷様)、天照大神以上6柱と伝えられております。 此の氏神は今から1077年前、醍醐天皇の延喜5年藤原時平が勅命を受けて、日本全国の名のある神社を調べ神社台帳に記載され(これを延喜式神名帳と言う)尾津神社はその時小社となって居り、 天照大神の御子天津彦根命をお祀りした多度神社は大社でありました。 尾津と言う所は倭建命が大和から御東征の時(静岡県の焼津付近)尾津崎に立ち寄られ松の木の下で食事をされ、松の木に太刀をかけて置き忘れて立ち去られましたが、 その時もう一振の太刀を持って居られたのが伊勢神宮で伯母倭比売命から貰い受けた剣で、現在名古屋の熱田神宮に祀られている草薙の剣であります。 その後征戦を終えられての帰途此の地に立寄られた時松の木にかけた剣が失はれず、そのままかかって居るのを御覧になって感激のあまり御歌をよまれたのが古事記にある次の歌であります。 尾張に直に向える 尾津前なる一つ松吾兄を 一つ松人に在りせば 太刀佩けましを衣着せましを 一つ松吾兄を 尾津崎は斯うした歴史ある所であります。 公式HP |
尾津神社 尾津は仮字也、和名鈔、(郷名部)尾津、(乎都)○祭神尾津君祖歟〇戸津村に在す、(考証、俚諺)〇日本紀、景行天皇40年10月條に、昔日本武尊向東之歳、停尾津濱而進食、是時解一劒置於松下、遂忘而去、今至於此劒猶存、』古事記、(景行段)到坐尾津前一松之許、先御食之時、所忘其地御刀、不失猶有、爾御歌曰、哀波埋邇、多陀邇牟迦弊流、哀都能佐岐那流、比登都麻都、阿芸哀、比登都麻都、此登邇阿理勢婆、多知波気麻斯哀、岐奴岐勢麻斯哀、此登都麻都、阿芸哀、」旧事紀、(天皇本記)成務天皇48年3月條に、日本武尊児稚賦彦王命、尾津君等祖、 考証に、日本武尊、稚武彦命と云るは然るべし、又古老云、今長嶋地尾張国海部郡也、今為伊勢國、且江海埋爲陸、與此歌辞地勢不相合と云り、 神社覈録 |