北桑名神社
きたくわなじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】佐乃富神社 伊勢国 桑名郡鎮座
   【延喜式神名帳】中臣神社 伊勢国 桑名郡鎮座

   【現社名】北桑名神社
   【住所】三重県桑名市堤原 72-1
       北緯35度4分4秒,東経136度41分18秒
   【祭神】建速須佐之男命 鵜葺草葺不合命 泣沢女神 天児屋根命
       持統天皇 応神天皇 宇迦之御魂神 火産霊神 高水上命
       (神社覈録)日本武尊

       佐乃富神社の祭神は建速須佐之男命であると思われる。

   【例祭】8月15日 例大祭
   【社格】
   【由緒】創祀年代や鎭座の次第は詳かでない
       明治41年太一丸鎮座の太一丸神明社と共に合併
       同年11月21日「北桑名(キタクワナ)総社北桑名神社」と社名を改称

   【関係氏族】
   【鎮座地】旧地は桑名市宝殿町

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「三崎神明社」と称していた
   【社殿】本殿神明造木造銅板葺
       拝殿・社務所

   【境内社】五霊神社

社名「サノフ」の意味は難解であるが、『神名帳考証』では「スサノオ」の略であるとしている。
街中の小社。持統天皇旧跡の碑ある。
かつて桑名市宝殿町に鎮座していたが、明治41年太一丸鎮座の太一丸神明社と共に合併し、同年11月21日「北桑名(キタクワナ)総社北桑名神社」と社名を改称して現在に至つている。
もとは三崎に鎭座する三崎神明社と称していた。
皇大神宮が野代より鈴鹿忍山へ移御の時由緒を以て北伊勢大神宮と称したという。
慶安3年(1650)、宝永2年(1705)、明和8年(1771)、文政6、7年(1823、24)の伊勢神宮お蔭参りの節は当社へ関東からの諸人が群参したと伝えられている。


北桑名神社

北桑名総社北桑名神社由緒書
当社は、江戸時代始めより現在地に鎮座し「三崎神明社」とも、「今一色神明社」とも称された今一色の産土神です。
明治41年、太一丸にあった「太一丸神明社」、宝殿町にあった「佐乃冨神社」を合祀し「北桑名総社北桑名神社」と改称しました。昭和12年、古くなった社殿等の大改修がおこなわれ立派な社殿神舎に成りましたが、おしくも先の大戦で全て焼失しました。戦後氏子、崇敬者の協賛により本殿、拝殿等逐次再建され、今日に至っています。
御祭神 天照大神・鵜葦不含尊(神武天皇の父)・高水上命(伊勢の豪族)・須佐之男尊・天児屋根尊・持統天皇・大山祇命
祭日 大祭(8月15日・16日)・小祭(敬老の日)
   新嘗祭(11月23日)・元旦祭(1月1日)
三崎神明社
桑名の地は古代文書によれば、自凝洲崎・加艮洲崎・泡洲崎の三つの洲に分かれていました。自凝洲崎に江ノ奥の記載があり、このあたりに社が奉斎され「江ノ奥神明」とも「三崎大神明」とも呼ばれていたようです。江戸時代の始め、慶長年中桑名藩による町割りや開発が行われ、時の城主本多忠政侯が神殿神舎を寄進し慶長19年8月現在地に遷宮しました。
郷土史によれば当社は踊りで有名で、江戸時代60年を周期とした「お陰参り」が盛んに行われたのに伴い当社への参拝も多く、関東人群参の社であったと伝わっています。
佐乃富神社・中臣神社
両社とも延喜式内の古社(「延喜神名帳」に記載されている全国の由緒ある神社)で代々の桑名藩主の崇敬があり寛永20年松平定綱侯が神殿神舎を建立しました。
壬申の乱(672年)が起こり大海人皇子は一族を連れて桑名郡家に、着き妻の菟野皇女(後の持統天皇)と幼い草壁皇子を桑名郡家に残し戦場となる不破へと向かわれ、戦いは大海人軍が勝利し桑名の地にもどられました。この間、菟野皇女は桑名郡家に滞在され、それが当社であると伝えられています。
蒐野皇女に対する奉仕と功労により蒐野皇女より「硯と鏡」を賜り、社宝として当社に伝承されてきました。
五霊神社
当社の境内神社で明治41年合祀の際、この地に点在していた小祀を一社に統合して奉斉するようになりました。「赤神様」とも呼ばれ桑名藩主の御命により防火の神、八天宮(火産御霊神)を祀り災害のないことを祈っています。
御祭神 火産御霊神・宇迦御霊神・大物主神・神功皇后・菅原道真公

由緒書



佐乃富神社

佐乃富は假字也○祭神詳ならず、○溝野村に在す、(考証、俚諺)今八劔宮と称す、
勢陽俚諺に、此村に日本武尊の苗裔とて、草薙忠左衙門と云ものありと云り、連胤按るに、当社は日本武尊を祭るなるべし、考証に、云々、實説素戔鳴尊之霊徳也と云るは、実に從ひ難し、

神社覈録



伊勢国INDEXへ        TOPページへ


学校情報