社名は当社を奉祭した星川氏によると思われる。 員弁川と嘉例川の合流地点の段丘上にある。 応神天皇のとき創建という。この地は大和から移住してきた星川氏の開発地という。 社地の東は星川城跡となっており、星川城は永禄10年(1567)8月、信長の北勢侵攻により攻略されたので、この時当社も被害に遭っていると思われる。 |
星川城跡 員弁川と嘉例川の合流地点の段丘上にある。星川神社の東側で現状は民家の宅地となっている。 永禄10年(1567)8月、信長の北勢侵攻により攻略される。 |
星川神社 星川神社 西羽 晃 星川神社に着くと、地元の方々が待ち受けておられた。今日の午後は春の大祭があるとかで、拝殿も開けられ、掃除もされていた。自治会長の伊藤宣毅さんから星川の説明を聞く。大和の星川郷(現天理市の辺り)から移住した人たちによって開発されたところであり、星川神社は江戸時代の記録では星川建彦宿祢命が祀られている。大和の祖先神を祀ったのであろう。鎮座は応神天皇のころと伝えられる。延喜式内社とされて、格式の高い神社である。付近は平安時代には星川市庭(いちば)とも言われ、員弁川が東西の流通ルートであり、弁天川と嘉例川が員弁川に合流する地点であって、港もあった。さらに多度と大矢知辺りを結ぶ南北の流通ルートが交わって、交易が盛んな場所であった。社地の東に中世には城があり、城主の春日部若狭守は銘村正の刀を寄進しており、今も神宝として保存されている。 また戦死者の霊が拝殿の中に納められている。明治末に付近の御厨神明社などを合祀したので、現在の主神を天照大神としている。拝殿の中に戦没者の霊を祀っている。星川神社での説明の様子は伊勢新聞社の生田雅子記者によって取材され、4月10日の『伊勢新聞』で紹介された。 北勢線の魅力を探る報告書 |
星川神社 由緒 創立は応神天皇時代と社伝にあるが詳細は不明。式内社であるが、現在の祭神以外に勢桑見聞器志抄などには祭神として早川建彦宿祢命があげられている。 当村は上代大和国から移住した星川氏族の開発地で、その祖神を祀ったものと推定される。 近代に入ってからは、明治40年11月4日同字に鎮座の八坂神社、御厨神明社、山神社を合祀し、同45年2月大字仲新田の稲荷社を合祀している。 社頭掲示板 |
星川神社 星川は保之加波と訓べし○祭神星川朝臣祖歟○星川村に在す、(考証、俚諺)〇古事記、(孝元段)此建内宿禰子、波多八代宿禰者、星川臣祖也、」姓氏録、(大和国皇別)星川臣、石川朝臣同祖、武内宿禰之後也、敏達天皇御世、依居地賜姓星川朝臣、〇神鳳抄云、星川大明神、神田二反、 北勢古志に、此神社は星川村に在て、一村の産土神也、さて祭神は、古谷双紙に、織姫と云るは例のみだりがはし、唯星川の名につきて、推当に棚機織姫の心にて云るなるべし、つらつら思ふに、星川氏人の爰に佐る事などありて、祖神を祭れる社にはあらじか、武内宿禰の子孫、此あたりによしある物彼是あれば、然思はるゝ也、平群をも考へ合すべしと云り、 神社覈録 |