賀毛神社
かもうじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】賀毛神社 伊勢国 員弁郡鎮座

   【現社名】賀毛神社
   【住所】三重県いなべ市北勢町垣内 718
       北緯35度8分10秒,東経136度30分17秒
   【祭神】彦坐命 (配祀)鴨県主命
   【例祭】10月10日 例大祭
   【社格】旧村社
   【由緒】由緒不詳
       天正年間織田信長北勢攻の時炎上
       元和元年(1615)桑名城主、本多中務大輔社殿を改造し祀典復旧
       明治5年7月村社

   【関係氏族】鴨県主
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】氏祖
   【祭祀】
   【社殿】本殿神明造
       拝門・拝殿・神饌所・参籠舎・社務所・絵馬堂

   【境内社】

三岐鉄道の線路の西、山の麓に鎮座する。
治田連の氏人が近江国浅井郡治田郷から当地に移住して治田の部落を作り、同じ祖先を持つ鴨県主の氏人も移住してきて氏神を祀ったものという。
中古までは神田も数多くあって社殿も宏麗であったが、天正年間織田信長北勢攻の時長島一揆の残党が当社の別当魏竹山興正寺に屯在して織田勢の爲に伽藍堂宇灰燼に帰し余炎で本社摂社神宝記録に至るまで鳥有に帰した。
ただ御神体は禍を避け一祠を設けて奉安したという。
元和元年桑名城主、本多中務大輔社殿を改造し祀典復旧したという。
明治37年までは、毎年10月に「流鏑馬」・「馬駆」の神事が、参道において行われた。


賀毛神社

由緒書
本神社は員弁郡一宮にして延喜式内社なり。
御祭神は第9代開化天皇の皇子
彦坐命
相殿 六所神社は彦坐命の後裔
鴨県主治田連命
神集社は八百万神を祀る
当社は醍醐天皇の延長5年延喜式神名帳に記録され約1070年前以前既に存在していたことが明らかである。
境内からは石器等種々の考古学的遺物も出土しこの地治田郷は極めて古い墾田地であり、往古より郷内六ヶ村の総宮として崇敬し奉る産土の大社である。
例大祭は10月10日
大祭は3月15日 11月23日
伊勢国員弁郡治田郷垣内

社頭石碑



賀毛神社

賀 毛 神 社 西村 健二
多志田めがね橋からしばらく歩くと三岐鉄道三岐線の踏切を渡って北勢町に入り、賀毛神社(かもじんじゃ)に到着しました。ここでは数えで90 歳を迎えられた民上宗夫宮司が説明してくださいました。
<賀毛神社の由来>
当社の創祀は古く、延長5(927)年にまとめられた『延喜式』神名帳に社名の記載があります。格式も高く、員弁郡の一の宮と称されました。主祭神は第9 代開化天皇の皇子日子坐命、相殿として治田連命と鴨県主命を祀っています。日子坐命4 世の孫である彦命は蝦夷平定の功績によって近江国浅井郡治田郷(現在の滋賀県長浜市)を与えられ、子孫熊田・宮平らが治田連の姓を賜りました。その末裔が伊勢国員弁郡治田郷に移り住み、氏神である治田連命を祀ったのが当社の起源と伝わります。併せ祀られた鴨県主命は、山城国愛宕郡賀茂郷(現在の京都市北区)から治田郷に移り住んだ鴨県主の祖神です。
賀毛神社は中世に流鏑馬神事を行い、別当寺である興正寺を有するほどに栄えますが、天正年間(1573〜1592)に長島一向一揆の残党が興正寺に立て籠ったことから織田信長の兵火にかかり、神社も灰燼に帰しました。近世に入ると桑名藩主本多忠勝が大祭に使者を派遣し、その子忠刻が神田・幣帛料を授け るなどして神社は復興、その後も歴代領主の庇護を受けて維新を迎えました。神社には正保2(1645)年2 月に行われた遷宮の際の棟札がのこされ、境内にも近世後期の石造物が並びます。主なものとして寛政3(1791)年9 月銘の手水石、文化8(1811)年8 月銘の灯籠(拝殿脇の「八幡宮」と刻んだ灯籠、参道入口の「常夜灯」)などがあります。
<近代以降の境内整備>
明治 30(1897)3 月27 日、参道入口の一ノ鳥居を築くために岐阜で購入した大木のお木曳が行われました。前日までに桑名から員弁川と陸路を利用して青川尻まで運び、当日は揃いの半纏を着た若者たちによって参道まで運ばれたといいます。その鳥居も昭和57(1982)年10 月10 日に鉄製の鳥居に建て替えられました。
明治 41(1908)年2 月8 日、全国的な神社合祀の流れを受けて治田村内の12 社が賀毛神社に合祀されました。そのため、現在も治田村には個人が祀るものと遠方の新町神社を除いて正規の神社は存在せず、賀毛神社は治田の総宮と呼ばれています。合祀された神社は拝殿に向かって左側の八百万神社(神集社)に祀られています。右側の祠は治田連命と鴨県主命を祀る六所神社です。合祀を終えた翌年には本殿・拝殿が移築され現在の配置となりました。なお、拝殿は平成8(1996)年11 月23 日に再建され、中には棟札が掲げられています。
ここに興味深いエピソードがあります。移築にあたって行われた地ならしで磨製の石斧・石匙・石棒が出土し、境内地は垣内遺跡として埋蔵文化財包蔵地となり、これらの出土遺物は現在も神宝として保管されています。宮司の民上家には考古学を研究していた民上進・良之輔・俊平兄弟のコレクションもあり、10 年ほど前までは学生や教授たちが見学を申し出ていましたが、今ではめっきり少なくなったといいます。
大正 6(1917)年12 月、本殿前に狛犬が建立されました。台座には「日露戦役」「従軍紀念」とあり、日露戦争従軍者7 名の名が刻まれています。その他、戦前の石造物としては、大正12(1923)年10 月銘と大正15(1926)年10 月銘の幟掲揚台、昭和7 年10 月銘の社号碑(一ノ鳥居脇)などがあります。
昭和 51(1976)年10 月には大規模な整備が行われ、神社入口の石鳥居・社号碑・由緒書碑・拝殿狛犬・石灯籠などが建立されました。地元の篤い信仰から整備は着々と進み、平成8(1996)年までに社務所、太鼓堂・円舞場(別個の建物をひとつのものとした)、手洗鉢などの整備がなされ、ほぼ現在の景観になりました。
<宮司民上家>
神社の隣には「民上社家」の表札を掲げた宮司宅があります。もともと清和源氏土岐氏の流れを汲む武家で、関ヶ原の戦いに敗れて美濃太田(現在の岐阜県美濃加茂市)に隠れ住み、母方の姓を称して民上(みかみ)と名乗ったそうです。その後、民上元清が伊勢に移って賀毛神社の宮司となり、三安・玉清・常康・文清・常照・永鄰(明治5 年8 月19 日没)・良寛(明治44 年1 月11 日没)・進(昭和34年7 月11 日没)と続き、現在の10 代宗夫宮司、11 代三男禰宜に続きます。また、民上家からは医師も輩出しており、北勢町中山の墓所には6 代常照の二男で亀山で医師となった孝令(嘉永2 年6 月24日没、号は正寿軒)の墓もあります。さらに、9 代進の弟良之輔は歯科医師、俊平(昭和45 年2 月4日没)は医師となりました。

北勢線の魅力を探る報告書



賀毛神社

賀毛は假字也〇祭神詳ならず○治田郷垣内村に在す、(俚諺)
北勢古志に、此神社古谷双紙、俚諺抄どもに、垣内村に在と云り、己れいまだ此あたりを委くせず、猶よく尋ね見て定むべし、さて祭神は俚諺抄に、神魂命也と云るは、例のいふに足ず、抑此所に賀毛神社ありて、丹生川村にも又鴨神社ある事、つらつら考るに、朝明郡片樋村に大神社ありて、其内によれる物なるべし、三輪も賀茂も、共に大和國の地名也、かゝれば此所のニツの鴨神社あるも、一方は鴨都波八重、一方は高鴨にて、御兄弟の神を祭れる事もあらんか、云々、旧事紀に、大物主より大田々根子までの世次を記せる中に、五代孫健甕尻命、亦名健甕槌命、亦云健甕之尾命、此命伊勢幡主女賀具呂姫爲妻、生一男云々、九代孫大田々根古命云々といへり、此伊勢幡主といへるは、倭姫世記に、乙巳、遷于伊勢國桑名野代宮、四年奉齋、于時国造大若子命、一名大幡主命、とある人にて此国造也、されば此続によりて、かの子孫の人の、此あたりに住る事などありて、彼是ともに祭れるにも有べし、猶思ふに、姓氏録に出たる大賀茂都美にも有べく、いつれにまれ、其氏の祖神にて、世次の中の神にもあるべしと云り、
類社
山城國愛宕郡賀茂別雷神社の條見合すべし

神社覈録



伊勢国INDEXへ        TOPページへ


認定こども園住所