社名は奉祭する猪名部氏によると思われる。 員弁川東岸、町役場の西に鎮座する。 境内に大きな古墳があり、猪名部氏の祖の古墳という、これを祀る神社。 |
上げ馬神事 毎年 4月の第一土、日曜の午後1時から行われます。 馬を勢い良く駈けさせ 高い崖を駈け上がるその成否で農作物の豊凶を占う祭り。 発祥は鎌倉時代で 以後810年間連綿と続いている伝統のある祭り。 馬がすぐ近くを疾送するその迫力 駈け上がりに失敗した馬が騎手を振り落として暴走するそれを取り押さえようと群がる勢子たちなど 勇壮な男の祭。 |
猪名部神社由緒 延喜式内社 祭神は猪名部造の祖伊香我色男命を主神とし、須佐之男命・天照皇大神をはじめ代々の祖神を祀る。 北側の御本殿は境内社で瑞穂神社と唱え明治41年春各地に鎮座した諸神を合祀された社である。 高塚天神と記された古墳は猪名部氏のお墓で大社の地名の如く昔は広大な境内中に散在した17基の古墳の最大のものである。 猪名部氏族の中からは春澄善縄朝臣を始めとして歴史に残る多くの偉人を輩出しているが鎌倉の時代に入って建久3年員弁大領であった郡司員弁三郎行綱が青少年の生気を鼓舞するため追野原で奉納した流鏑馬の神事は以来780有余年伝統を誇る郷土の奇祭として4月第一土・日曜の両日賑々しく厳修される。 社頭掲示板 |
猪名部神社 猪名部氏は、元々の現住豪族と攝津国(兵庫県)の猪名川周辺から大和(奈良県)を経て、移住してきた豪族との融合豪族といわれる。第43代元明天皇の和銅6年(713年)勅命により、猪名部の族名が転じて「員弁」とされた。 奈良の大仏「東大寺」は、第45代聖武天皇の天平17年(745年)8月から建立され、猪名部氏の猪名部百世が大工(棟梁)、飛騨の匠の益田縄手が少工(副棟梁)として完成した。 この世界最大の木工建築物は技術の粋を集めて建立され、その総指揮をとった猪名部氏が建築技術に優れ、宮中に仕えた名工として日本書紀にも登場し、実に著名であったことが判る。更に尚、世界最古の木造建築物「法隆寺」・「石山寺」・「興福寺」の建立にも携わった歴史がある。又、古墳の出土品から「飛鳥寺」建立にも携わっていることも伺える。 祭神伊香我色男命は、猪名部氏の祖神で、天孫瓊々杵尊の兄、饒速日命の六世の孫と記されている。当神社の創建時代は明らかでないが、延喜式内社(905年の延喜五年に、勅命により藤原時平が、当時の神社を延喜式神明帳に記載した神社)に列し、貞観元年(859年)第56代清和天皇の時代、神階従五位下に同八年従四位下をすでに授けられている。 同15年(873年)9月9日、天皇に仕えていた掌待、春澄朝臣高子が旅費として官稲千五百束を賜って氏神猪名部神社に奉納したことが三代実録に記され、よってそれ以来神社の諸祭儀は何れも九日と定められた。抑々この春澄朝臣高子は参議式部大輔(今の宮内庁長官)従二位善縄卿の長女である。善縄卿は猪名部造で、員弁少領財麿の息、大目豊雄の子である。 善縄は、京都に上がり春澄宿称、跡に朝臣を賜り、貞観12年2月7日(870年)、74歳で薨去されている。その一代の事歴の中で特筆すべきことは、文学博士となって清和、仁明、文徳の三朝に仕えて御進講に従事し、或は大学に諸生を訓育し、更に勅を奉じて内裏式及び「続日本後記」二十巻を著わされたことである。今を去る千百余年の昔、この員弁の谷より出て、文学を似て身を立て、宮中に進講して勅撰の歴史を編纂し、その高名を広く日本の歴史に留められた偉業は郷土史上の一大異彩である。その子孫の中、鎌倉時代員弁大領であった員弁家綱、その子員弁郡司進士三郎行綱があるが、特に行綱は東員町大木の御殿に居城し、源頼朝の騎射・巻狩の上意に従って、青少年の士気を鼓舞せんがため建久3年(1192年)追野原に於いて流鏑馬の神事を奉納し、以来“大社祭”としてその伝統と歴史を誇りつつ全国的に二ケ所しかない珍しい祭礼として報ぜられている。 全国に於いて、最も古墳の多い神社として著名で、神社境内にある一大古墳は猪名部氏の墓で、散在した17の墳墓の内最大のもの(6世紀)である。現在、高塚大神と記された陵頭の数々の石は、総て散在した墓の蓋石である。老松、古柏が鬱蒼として茂り、本殿、境内社、薬師如来、閻魔堂と共に氏子崇敬者を始め郷党の斉しく敬慕するところである。之を要するに当神社は遠く猪名部氏の祖・伊香我色男命を主神とし、親から子、子から孫へと続く氏子、氏族、崇敬者の先祖を合せて奉祀する総社である。特に、日本の歴史に明記される建築技術の神、学問、器用さを与える最も由緒尊い神社として、敬神壮年会、敬神婦人会、敬神青年会の活動も加えて、将来愈々脚光をあびて神徳益々光を放つであろう。 公式HP |
猪名部神社 『延喜 式神名帳』に、伊勢国員弁郡猪名部神社とあるは、即ち此社にして三代実録に、貞観元年5月26日辛巳授伊勢国従五位下員弁大神正五位下、同8年閏3月13日戊午授伊勢国正五位下員弁大神従四位下、同15年9月9日辛未掌侍従五位上春澄朝臣高子奉弊氏神向伊勢国勅賜稲一五百束以為行旅之資とある。春澄の氏神是なり、春澄高子後洽子と改名あり。典侍は参議従三位春澄朝臣善繩卿の長女なり、善縄卿は 伊勢国員弁郡の人にて員弁少領猪名部造財麿の男周防大目豊雄の男なり。天長の初年 達官後左京に移住し、同5年猪奈部造の姓を改め春澄宿祢、後に朝臣を陽われり、されば春澄朝臣の本姓猪奈部造にて員弁郡の土着なりしなり。此に依て此を見れば員弁大神社頭に接して高塚と呼ぶ陸墓の大なるものあり、其余若干の塚境内に散在す。是員弁大神を氏神と称し、末裔の春澄氏其祭祀を奉じ来りしものならん。村邑を大社と云うも此大神の社あるより唱ふるなるべし 明治39年の『神社明細帳』 |
猪名部神社由緒 延喜式内社・祭神は猪名部造の祖、伊香我色男命を主神とし須佐之男命、天照皇大神をはじめ代々の祖神を祀る 北側の御本殿は境内社で瑞穂神社と唱え明治41年春各地に鎮座た諸神を合祀された社である 高塚大神と記された古墳は猪部氏のお墓で大社の地名の如く昔は広大な境内中に散在した17基の古墳の最大のものである 猪名部氏族の中からは春澄善縄朝臣を始めとして歴史に残る多くの偉人を輩出しているが鎌倉の御代に入って建久3年員弁大領であった郡司の員弁三郎行綱が青少年の士気を鼓舞するため追野原で奉納した流鏑馬の神事が以来780有余年伝統を誇る郷土の奇祭として4月の第一土日曜の両日賑々しく厳修される 尤も猪名部氏の発生は兵庫県の猪名川周辺から奈良に移り名高い東大寺・大仏殿建立の総指揮を司った豪族で、ために当神社は1200有余年の昔より日本の正史に明記される建築技術・学問・器用さを与える神として熱誠溢れる氏子崇敬者の信仰心と共に将来益々神徳煤然と輝くであろう 昭和54年4月 謹書 二十四世宮司 石垣方寛 社頭石碑 |