当社は、猪名部氏の祖神伊香我色男命を主神として祀り、古くから長尾、日内、川合の三村の氏神と尊崇してきた古社である。 社名は奉祭する猪名部氏によると思われる。 員弁川の北岸、集落の中に鎮座する。 この地は猪名部氏の本拠地。 和銅6年5月2日に郡名を書きあらわす場合には好字2文字にせよとの官命があり、郡名を書きあらわす場合には「員弁」、氏姓の場合には旧来通り「猪名部」の三字を用いたとされる。 清和天皇の朝廷での一族の春澄善縄の著しい功績によつて、その氏神が式社に列せられ授位されることになつたのではあるまいか。 集落の西北隅の松林の中に春澄氏第宅跡と称する平坦な一角があり、土地の人はそこを「春澄屋敷」と称している。 |
猪名部善縄 「猪名部善縄 (いなべのよしただ)」、後に「春澄善縄」といいます。 善縄は、現在の藤原町長尾に生まれ、やがて文章博士となると、時の天子・仁明天皇に、「善縄は先生、自分は弟子」といわしめるほど学力の持ち主で、当時の右大臣・藤原良房とともに、国史「続日本後紀」20巻を仕上げた学者でした。この善縄の活躍により、氏神である猪名部神社の神格があげられたとされます。 |
猪名部神社 猪名部は假字也○祭神猪名部造祖○長尾村に在す、(俚諺)○姓氏録、(左京神別上)猪名都造、伊香我色男命之後也、〇三代実録、貞観12年2月19日辛丑、参議從三位春澄朝臣善縄薨、善縄字名達、左京人也、本姓猪名部造、為伊勢國員辮郡人、達官之後、移隷京兆、祖財麻呂為員弁郡少領、5年賜姓春澄宿禰、兄弟姉妹五人同以預之、後改宿禰朝臣、先是奉昭撰修続日本後紀廿巻、迄于十一年筆削甫就、詣閥献之、蔵之太政官、是年春初、病発加劇、2月7日授從三位、薨於東京里第、時年七十四、長女沿子為正四位下典侍、」同15年9月9日辛未、掌侍從五位上春澄朝臣高子奉幣氏神、向伊勢國、勅賜稲千五百束、似参行旅之資、 連胤按るに、当社は猪名部造の氏社なる事明らが也、されど饒速日命を祭るとも、伊香我色雄命を祭るとも定め難けれども、恐らくは色雄命ならんか、〇北勢古志に、此神社は今長尾村に在りて、里人は牛頭天王と唱へて、長尾、日内、河合の三村立合にて祭る社也、徴古録、古谷双紙、俚諺抄の類にも、則此村に在よし云、さて祭神は古谷双紙に、饒速旧命也と云るは例の信難し、三代実録に、云々、今の世某が屋敷跡とて、則長尾村にあり、されば此神社は、もと猪名部氏の祖神と持いつけるものなるべしと云り、又云郷名の美耶も、則宮の心にて、古此神社のみ盛なりし世の称にもあらんか、今の世尾張の熱田をみやと云も、全く其心なれば也と云り、 神社覈録 |