平群神社
へぐりじんじゃ 所在地 社名

















   【延喜式神名帳】平群神社 伊勢国 員弁郡鎮座

   【現社名】平群神社
   【住所】三重県桑名市志知 3693
       北緯35度3分5秒,東経136度36分51秒
   【祭神】木菟宿根 天照大御神
       (配祀)建内宿根命 大己貴命 須佐之男命 大山津見命 倭建命

   【例祭】10月12日 例祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】仁明天皇〜清和天皇の間に創立

   【関係氏族】平群氏
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】氏祖
   【祭祀】
   【社殿】本殿神明造
       拝殿・社務所

   【境内社】

社名は奉祭する平群氏によると思われる。
久米小学校西、平群山(今俗称、ちげの山)というこんもりと木の茂つた低い小山の東斜面に鎮座する。この山は古墳である可能性が大であるとされている。
背後の平群山は古代神奈備の遺跡である。
仁明天皇〜清和天皇の間に創立と言われている。
祭神は大和国からこの地に移住した平群氏族の祖神、木菟宿祢(ずくのすくね)である。宿祢の後裔は味酒臣(うまざけのおみ)の姓を賜り、伊勢国に移り、この地に定住してその祖神を祀ったという。
日本武尊の旧跡地であり、鎌倉時代には広く崇敬されていた。


由緒

延喜式内社。本社は大字志知の氏神(祭神は平群氏族の祖神、木菟宿禰)であり、合祀の祭神は木菟宿禰の父式内宿禰・大巳貴命・天照大神・素盞嗚命・大山津見命・倭建命である。
この地は倭建命(日本武尊)御駐足の跡と伝えられており、境内には氏子などによって建てられた尊の御歌「いのちのまたけむ人はたたみこもへくりの山のくまかしか葉をうすにさせその子」を刻んだ石碑が、境内奥には倭建命の足洗池と伝えられる池があり、「平群池の白サギ」の伝説も残っている。
また、背後の平群山は古代神奈備の遺跡である。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




平群沢ため池公園

ようこそ平群沢ため池公園へ
平群池は、「志知の宮池」と地元では呼ばれ手織り、その昔、日本武尊が戦往にあけくれ東往の帰路に着く際、志知平群の森に寄り、本池で足を洗って疲れをいやしたといわれています。この宮池での伝承は多く、神秘な水面にしっと耳をすませると、日本武尊がジャブジャブと足を洗う音、片目の魚がピチャとはねる音、突然、猟師の九左衛門がドブンと落ちた音などが聞こえて来そうで、今でもこの志知地区の民話として語り伝えられています。
また現在、本池から流れ出る水は、土地改良が行われた水田へのかんがい用水として利用されております。

社頭掲示板



平群(へぐり)池

志知村には「ヤマトタケル」にちなんだ伝説があります。
ヤマトタケルは古事記に登場する伝説の英雄ですが、 東征の帰り伊吹山で病となり、多度を通り、桑名の志知村 平群山にさしかかった時、同じ名前の故郷の平群を想い、 歌を詠みました。
「いのちのまたけむ人はたたみこも、平群の山のくまがしが葉をうずに挿せその子」(命がこれからもある人は 、平群の山に生えている、常緑樹である熊がしの葉を、 髪に挿しなさい)。この歌の碑は、平群神社の境内にあります。
また、神社の裏の平群池でヤマトタケルが足を洗ったと いう伝説もあります。
この池に関して昔話が2話伝わっています。
片目の魚
平群池に住む片目の魚を採ると神罰が当たるといわれ、 誰も近づきませんでした。
ところが、ある日、松右衛門 という漁師がこっそりと網をかけ、大鯰(なまず) を生け捕りました。
籠に入れて帰ろうとすると、池の方から 「松右衛門やーい、松右衛門やーい」と呼ぶ声がしました。
すると、籠の中の鯰が「おおーい、おおーい」 と返事をしました。
漁師は驚いて鯰を池へ放り込んで逃げ帰りました。
しかし、漁師は病気になって死んでしまいました。
九左衛門と白鷺
昔、志知に猟師の九左衛門という人がいました。
ある日、平群池のほとりで白鷺を撃とうとしていたところ、 足を滑らせて池に落ちてしまいました。岸にはい上がろうと泳いでいると、ふんどしの中に モロコがいっぱい入り、ふところには鯉が飛び込んできました。
シメシメと思った九左衛門は、池から上がろうと 木の根をつかみました。
ところが、木の根と思ったのは、兎の後ろ足でした。
突然足を捕まれた兎は、驚いて逃げようとして前足で土 を掻きました。
その土の中から山芋がたくさん取れました。
白鷺を撃ち損ねた九左衛門は、 池に落ちたことによってモロコ・鯉・兎・山芋を手に入れました。
「災い転じて福となった」と、初めは喜んだ九左衛門でしたが、 あまりの幸運に気持ちが悪くなり、以後殺生をするのはやめました。

桑名市HP



平群神社

延喜式内社、本社は大字志知の氏神(祭神は平群氏族の祖神、木菟宿禰)であり、合祀の祭神は木菟宿禰の父武内宿禰・大巳貴命・天照大神・素戔鳴命・大山津見命・倭建命である。
この地は倭建命(日本武尊)御駐足の跡と伝えられており、境内には氏子等によって建てられた尊の御歌「いのちのまたけむ人はたたみこもへくリの山のくまかしか葉をうすにさせその子」を刻んだ石碑が、境内奥には倭建命の足洗池と伝えられる池があり、「平群池の白サギ」の伝説も残っています。 また、背後の平群山は古代神奈備の遺跡である。

社頭掲示板



平群神社

平群は倍久里と訓べし○祭神平群木兎宿禰、(考証、俚諺)○志知村の内山城に在す、(俚諺、国史)○神鳳抄云、平群神田三町、〇三代実録、貞観3年9月26日丁酉、左京人大内記從七位上味酒首文雄等三人、並賜巨勢朝臣、先是左京亮從五位下巨勢朝臣河守等奏言、文雄欺構、先祖出自武内宿禰大臣也、大臣第五男巨勢男韓宿禰、是巨勢朝臣之祖、第三男平群木兎宿禰、即是文雄之祖也、木兎宿禰之後賜味酒臣姓、論落被貫伊勢國、至于文雄祖宗、改臣賜首姓、入貫左京事換圖牒、云々、
北勢古志に、此神社は志知村の内平群山といふに在て、云々、其名高く山内悉く白梼原にて、御前の池を平群池ともいふ也、さて祭神は平群木兎宿禰也、と云然るべし、さて此人の霊をしも爰にいつき祭れるよしは、三代実録に、云々、(文前に挙ぐ)どいふこと見えたり、右の論落の聞に祖神と祭れるもの也、則本居氏の説に、伊勢國員辮郡平群神社あらば、此氏人の彼國に愉落したりしほどに祀れる社にやあらん、と云るが如し、さて此氏人の爰に住ける由にや、武内宿禰の子孫の氏々、此あたりによしある物彼是あり、上に云る星川をも考へ合すべしと云り、
類社
大和國平群郡平群神社の條見合すべし

神社覈録



郷社 平群神社

祭神 平群木兎宿禰
相殿 武内宿禰 大已貴命
合祭 天照大御神 須佐之男命 大山津見命(四座)、
創建年代詳ならずと雖も、神名帳考証に、「平群神社、今在志知村、平群木兎宿禰」と見え、神名帳考証再考に云く、「志知村に此神社有、是は大和国平群郡に、平群坐紀氏神社といふありて、紀氏の本宗家の木兎宿称を祀る所なるを、大内記味酒首文雄といふ人、当國の民間に在るが、是紀氏の別支なれば、平群に在祖の社を此に建し也、」日本紀及び古事記に、平群郡久宿禰者建内宿称の子とあり、又日本紀(仁徳紀)には、「初天皇生日、木兎入于産殿、明旦誉田天皇喚大臣武内宿禰語之曰、是何瑞也、大臣対言、吉祥也、復当咋日臣妻産時鷦鷯入于産屋、是亦異焉、爰天皇曰、今朕之子與大臣之子同日共産、兼有瑞、是天之表焉、以為取其鳥名各相易名子、為後葉之契也、則取鷦鷯名以名太子曰大鷦鷯皇子、取木兎名号大臣之子曰木蒐宿禰、是平群臣之始組也」とあり、社伝によれば、延暦年中木兎宿禰の後裔大内記味酒首文雄と云へる者伊勢國に沿落の際、村内山城といふ処に住し其祖(即木兎宿禰其姓紀氏)の社を創立す、後遂に一村の氏神と斎ひ奉れりと、三代実録に云く、「味酒首文雄味酒首文主味酒首文宗等三人、並賜巨勢朝臣、先是巨努朝臣河守奏言、文雄欺履、先祖出自武内宿禰大臣也、大臣第五男巨勢男韓宿禰、是巨勢朝臣之祖、第三男平群木兎宿禰、即是文雄之祖也、木兎宿禰之後、賜昧酒臣姓、沿落被貫伊勢國、至于文雄祖宗、改臣賜首姓、是以改姓之望、朝夕刻思、但須順祖胤之流、賜平群之姓、而平群之字、称謂是凡、巨勢之文、義理堪愛」又神社覈録に、「平群は倍久里と訓べし、祭神平群木兎宿禰、志知村の内山城に在す」とあり、北勢古志に云く、「此神社は志知村の内平群山といふに在りて云々、其名高く山内悉く白樫原にて、御前の池を平群池ともいふ也、さて祭神は平群木蒐宿禰也と云ふ、然るべし、さて此人の霊をしも爰にいつき祭れるよしは、三代実録に云々(文前に挙ぐ)といふこと見えたり、右の沿落の間に祖神と祭れるもの也、則本居氏の説に、伊勢国員弁郡平群神社あるは、此氏人の彼國に治落したりしほどに祀れる社にやあらん、と云へるが如し、さて此氏人の爰に住ける由にや、武内宿禰の子孫の氏々、此あたりによしある物彼是あり、上に云る星川をも考へ合すべし」と、なほ、同書に云く、「平群山、則上に云へる平群神杜のます山なり、倦此山につきて論あり、そは日本武尊東方十二道のあらぶる神、又まつろはぬ人ともを平げて帰り上り給へる時に、かの尾津崎より次々南の方へものし給ひて、遂に能煩野にてかむさりませる。其時の御歌「伊能知能、麻多祁牟比登波、多多美許母、幣具理能夜麻能、久麻加志賀波遠、宇受爾佐勢、曽能古」と此者思國歌也とある、此御歌を古より爰の平群の事に語り傅へたるを、本居氏古事記伝には大和国平詳郡なる山なり、和名鈔には平群郡平群郷もあり、然るを或人云く、此平群山は倭なるはあらす、神名帳に伊勢国員弁郡平群神社あるその地なり、社は今志知村と云ふに在之と見え、和訓栞にも、伊勢國員弁郡に平群神社志知村にあり、是日本武尊美濃国より鈴鹿郡に赴き給ふ時の歌に「たゝみこも平群山」と読ませ給へる処なるべし、其山樫の木多し、因て「くまかしが葉を」と読け給ふ思国歌也とあるをもて、大和の平群とするはあしゝ今満山皆白樫の木なり」と、是に由れば略本社の縁由を知るに足らん、而しで祭神の神階は、文徳実録に云く「仁寿元年1月庚子、詔天下諸神不諭有位無位、叙正六位上、其後土御門天皇建仁元年2月、天下諸神一統奉授位一階、又亀山院天皇弘長元年以下同文のこと諸社記に見えたれば、以て神階を知るべく、又神領は「神鳳鈔に平群神田三町、或は古老云く、志知村旧地字足ケ坪といふ宮田あり、從前貢租を村社の供物に充つ、これ平群神田なり」と伝ふるを見れば、当社を志知郷の総社と称へ來りしこと決して偶然にあらす、明治8年村社に列せられ、同33年11月郷社に昇格す、其後同41年村社櫛田神社、無格社一、境内社一を本社に合祀す。
社殿は本殿、祭文殿、拝殿、祭具庫等あり、境内坪数367坪(官有地第一種)外に上地林324坪あり明治37年境内編入許可せらる、此地は都て高く孤立して椎橿の古木及び老杉等鬱蒼として昼猶暗く、実に神々しき社地たり。
宝物は神鏡十九面、幣串四本、立額一面、狛犬二個、槍身一本、太刀三ロ、脇差一ロ等あり。

明治神社誌料



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