朝明川北岸、三重IC西に隣接して鎮座する。 この地に穂積氏の氏人が住んで、祖神を祀つたものであろう。 この地は弘永御厨の地とされている。 創祀年代は詳らかでないが、中世以降は川島に坐し、十七村の惣社として尊崇され、川島明神とも称されていた。 永緑11年、天正6年と両度の合戦によつて社伝、古記みな亡んだという。 また江戸時代には「団子の宮」「談合之宮」として村民の尊信を集めていた。 『延喜式神名帳』伊勢国朝明郡「耳利神社」に比定する説もある。 |
穂積神社 穂積は保豆美と訓べし○祭神穂積穣氏祖神○廣永村に在す、(古志)今川島大明神と称す、〇古事記、(神武段)邇芸速日命、娶登美毘古之妹、登夜毘売、生子宇摩志麻遅命、此者物部連、穂積臣、采臣祖也、』姓氏録(左京神別上)穂積朝臣、石上同祖、神饒速日命六世孫伊香色雄命之後也、また穗積臣、伊香賀色雄命男大水口宿禰之後也、 北勢古志云、此神社は廣永村に在て、里人川島大明神と申て、産土神と持いつけり、(俚諺抄の類の書に、耳利神社とあやまりて、田口村に在由云るは非なる事、上に弁へれるが如し、)さて祭神を俚諺抄には、饒速日命也と云、又或説には伊香色雄命也と云り、云々、右の二柱の内いつれにても有べき也、さて穂積氏は、本居氏の説に、萬葉集に、水蓼穗積至云々、とある所にして、大和の地名より出たるべしと云るが如く、本は彼國の、地名なるが、其氏人の爰にも住る事などありて、又移りたる名にもやあらん、神社のみならず、此あたりを穂積庄とも云也、東鑑に見えたる穂積庄も、則此所をさせる也、されば神社は、其氏人の祖神と祭れるものにて、終に地名ともなれるにや、 神社覈録 |
郷社 穗積神社 祭神 饒速日命 伊香我色雄命 創建年代詳ならず、神社覈録に云く、穂積は保豆美と訓べし、祭神穂積氏祖神、廣永村に在す、今川島大明神と称す、古事記に云く、邇芸速日命、娶登美毘古之妹、登美毘売、生子宇摩志麻遅命、此者物部連、穂積臣、采臣祖也、姓氏録に云く、穂積朝臣、石上同祖、神饒速日命六世孫伊香色雄命之後也、又穂積臣、伊香賀色雄命男大水口宿禰之後也、」神名帳考証に云く、「穂積神社、伊香色雄命、」又神祇志料に、「穂積神社、蓋穂積氏祖神饒速日命を祀る、毎年八月朔、田宝祝の祭を行ふ、此日鈴木氏専ら其祭に預り、稲穂を献るを例とすと見え、共に朝明郡(明治29年三重郡に併入せらる)二十四座の中に数へ式内小社とす、北勢古志に云く、此神社は廣永村に在て、里人川島大明神と申して、産土神と持いつけり(俚諺抄の類の書に耳利神社とあやまりて田口村に在る由云へるは非なる事、上に弁へたるが如し)さて祭神を俚諺抄には饒速日命也と云ふ又或説には伊香色雄命也と云へり云々、右の二柱の内いつれにても有るべき也、さて穂積氏は、本居氏の説に、萬葉集に水蓼穂積至云々とある所にして、大和の地名より出たるべしと云へるが如く、本は彼國の地名なるが、其氏人の爰にも住る事などありて、又移りたる名にもやあらん神社のみならす、此あたりを穂積庄とも云ふ也、東鑑に見えたる穂積庄も則此所をさせる也、されば神社は其氏人の祖神を祭れるものにて、終に地名ともなれるにや」と見ゆ、微古録に、「穂積神社は川島と云へる処に坐す、十七ケ村の総社なり、三重郡に河島村あり其地に非ず、同名なり、此河島は本邑の小字にして、廣永は穂積の庄弘永の古券及旧昔の田文ありと云ふ、本社は近邑の民崇敬して川島明神と称し祭祀する所なり」と見え、古谷神名帳及び勢陽雑記五鈴遺響も亦同文たり、然るに神名帳考証検録に云く、「穂積神社康永の内河島宮是なり、俗に談合の宮と云ふ」と、尚考べし、而して往昔神領の廣大なることは、神鳳抄に「穂積神杜廣永村弘永御厨六十町」、布留屋草紙に云く、「穂積庄は芋粟稗大豆を産す、朝明田光山より海迄凡そ五里、早魚鱒等廣永御厨穂積神社穂積連横瀬勝五郎永禄年中の領」と、以て其沿革の概略、由緒の一班を窺ふに足るべし、明治8年村社に列し、同15年1月19日郷社に列せらる、同41年境内社巖島神社及び無格社春日社花山神社の二社を合祀すと云ふ。 社殿は本殿、雨覆、拝殿、瑞垣、瑞垣門玉垣、神樂殿、木鳥居、手水舎等具備し、境内坪数1289坪(官有地第一種)を有し、総て平坦なれ共老樹鬱蒼として社頭を綾り、自ら千古の歴史を語るものゝ如く、賽者をして知らす識らす襟を正さしむるの霊域たり、 明治神社誌料 |