四日市JCT東、山村貯水池の南、尾根の上に鎮座する。 世尊寺の境内から石段を登った奥にある。 この地に大きな森あり明治までは漁民の帰途目標となっていて、漁民の崇敬があつい。 明治30(1897)年にこの神社の付近で古代の金製の耳環が発見され、この辺りは金塚古墳群とされている。 大正2(1913)年3月広永町の穂積神社に合祀されたが、戦後もとの場所に再興された。 当社を式内社「桜神社」に比定する説もある。 |
布自神杜 布自は假字也〇祭神木華開耶姫命、(古志)○山村に在す、(俚諺、古志) 北勢古志云、此神社は山村にあり、徴古録、古谷双紙、俚諺抄の類の書にも則然云り、然るを或書に、埋縄村に在よし云るはいみじき非也、さて此神社の在所は、山村の北方なる山中にて、則其処を富士山とも富士森とも云、御社を富士宮と云り、朝明郡の北のはてにて、員弁郡に境たれば、中比よりまぎれて、能部村の神社の如くなりしを、今はまた古にかへりて、山村の方となれるぞよき、さて祭神は木花開耶姫命也と云り、又此所より間遠からぬ大矢智村にも、櫻神社ありて此神を祭れり、是必よし有事なるべし、云々、さて布自神社としもいふは、則富士山に鎮坐る神なるをもて、かしこより移れる名なるべし、連胤按るに、当社は開耶姫命にて、富士山より移れる名には違ふまじ、されど桜神社をも同神といふはいかがあらん、從ひがたきこゝちす、猶次なる櫻神社の條考へ合すべし、又云、考証に、今在大矢智村を云れど、他に同案の書を見ず、こは同村なる櫻神社をも、俗に富士社といふよし見ゆれば混雑せしなるべし、故に論ぜず、 神社覈録 |