朝明川南岸保々中学校の北に接して鎮座する。 和銅2(709)年ごろに創建とされ、天平3(731)年の棟札がある。 此の地は保々御厨の地で神宮との所縁もふかい。 奈良の春日大社に仕えていた殖栗一族が、共通する祖先神たる「天児屋根命」と、その氏上「殖栗連(えぐりむらじ)」をお祀りしていることから、その氏族の名が社名として付けられたのである。 もとは保々村大字市場字竹千代1784番地にあつた。 明治44年現在地に移転。旧地の地番に春日神社がある。 |
殖栗神社 殖栗は衛具利と訓べし○祭神天児屋命、(考証、俚諺)○保々郷市場村(又は千栗村と云)に在す、(同上) 北勢古志云、此神社は保々の市場村に在て、里人は殖栗縣大明神とよぴて、産土神と持いつけり、さて又祭神は、俚諺抄、又或書などに天児屋根命也と云れど、例の拠を知らず、今此あたりの一名を、千栗ともいへば、古栗の木のいと多かりしかぱ、殖栗てふ名に有にもやあらん、連胤按るに、当社祭神こそ天児屋根ならめ、かくいふは、大和国春日の略記に、武雷神者有山於常陵鹿島、移御于伊賀国名張郡愛身郷、供奉者社司二人、舎人一人也、云々、時風秀行献御饗乏時奉備進栗矣、神慮甚当而賜殖栗姓、どあり是に因て思へば、当郡は常陸より伊賀に出御の道筋にして、此姓を賜ふも、伊賀の薦生中山にての事なれば、土地近くいにしへ栗の木の多かりしといふも、由縁なしとは申がたくや、故に今考証、俚諺抄の説に從ふ、 類社 大和國城下郡殖栗神社の條見合すべし 神社覈録 |