移田神社は元は柿村大字井戸尻の田間に鎮座し、貴船大明神とも称された。 明治41年井後神社に合祀されたが、昭和27年埋縄里中の旧地に復帰した。 |
移田神社(延喜式内) 由緒 移田神社の祭神は神杜に奉納されていた古い神名札に稲霊埴安神とあったといわれ、埴安媛神であったものをのちに天王といい、建速須佐之男命とよぶようになったと伝えられる。明治40年8月1日、神明社「祭神天照大神」境内社一社と、字北谷にある八幡社「祭神応神天皇」および字入力谷の山の神社轄「祭神大山祇命」の無格社二社を村社移田神社へ合祀の上、移田神社と単称することになった、さらに、同44年2月20日に■井後神社に合祀され、大正10年頃跡地敷地内に、大和信貴山から毘沙門天王を招いて祀り近年迄祀っていたが、後継者がなく、平成11年11月25日をもつて、大和信貴山へお返しをした。 尚移田神社は昭和27年6月に合祀先から旧地に復帰し、旧拝殿の北側に接して新しい拝殿が建てられた。 境内に「山の神」と刻まれた自然石がある。 昭和42年拝殿の構築を行えど、まだ手狭と老朽化のたの毘沙門天あとに、神殿一括建立の気運が高まりの中、二年間の歳月を費やし平成15年10月13日盛大なる、神殿祭を執り行い。現在に至っている。 社頭掲示板 |
移田神社 移田は字豆志多と読り○祭神詳ならず○埋縄村に在す(考証、俚諺)、今牛頭天皇と称す、 北勢古志云、此神社は徴古録、古谷双紙、俚諺抄の類の書に、埋縄村に在と云るが如し、但此村には牛頭天王、山神の二社ある中に、天王とよべるぞ則それなると云伝へたり、さて又此村を引田庄園田郷と云伝へたるも、則神社の御号に同じ、(移田の名の心を、和訓栞を引て説たれど、よしとも思はねば洩しつ、)さて祭神を、古谷双紙、俚諺抄に埴安神也と云るは、田といふに付ての推当なめれば、云に足らず、又或説に、須佐之男命也と云るも拠を志らず、例のただ田の事に幸ある神にぞ坐まさむ、 神社覈録 |