耳常神社
みみつねじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】耳常神社 伊勢国 朝明郡鎮座

   【現社名】耳常神社
   【住所】三重県三重郡菰野町小島1688
       北緯35度4分2秒,東経136度31分34秒
   【祭神】応神天皇
       (合祀)天照大御神 保食神 建速須佐之男命 市杵島姫命 大山祇神

   【例祭】10月14日 例祭
   【社格】旧村社
   【由緒】由緒不詳
       文政10年(1827)の棟札に「奉造立耳常神社」
       明治に入り村社
       大正4年10月神饌幣帛料供進社指定

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「八幡社」と称していた
   【社殿】本殿八幡造
       拝殿・神饌舎・別殿・社務所・握舎・倉庫

   【境内社】

台地の縁に鎮座する神社。
創祀年代は不詳である。
近世には、小島八幡と称し古来諸書にみえるように延喜式内耳常神社に比定されてきた。
応仁以来の兵火の中で難を避けるために八幡社と唱えたという。
文政の頃には耳常神社と公称していた。


由緒

当社の創祀については不明の点も多く、はっきりしませんが神社前の田畑から六世紀後半の竪穴式住居跡(六谷遺跡)の埋蔵文化財が発掘されており、少なくともこの頃までに人々が住み、神まつりをしていたと思われます。
平安時代初期の延長5年(927)に編さんされました「延喜式」に朝明郡(現在の四日市市と菰野町の一部)の神社23社がしるされており、そのなかに耳常神社の名がみられます。
このことは当時すでに耳常神社が由緒のある神社として朝廷から崇敬されていたことを物語っています。
戦国時代に織田信長の兵火をさけるため八幡社と称したことから明治維新まで小島八幡社ともいわれ近郷の信仰をあつめました。。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




耳常神社

延喜式内八幡宮耳常神社由緒板
御由緒
耳常神社の創祀については不明な点が多くはっきりしませんが神社前の六谷遺跡は古墳時代後期から鎌倉時代ににかけての土器焼住居跡が発見されており、少なくとも3世紀にはこの土地に人々が住み神まつりをしていたと思われます。
平安時代初期第60代醍醐天皇の延長5年に延喜式といふ律令(法律)の施行規則が編纂され、その中に全国神社を記した神明帳には当時の2861社が記されており、その1社が当社である。
全国の神社八万社の中でも当社は延喜式内神社として千年以上歴史ある格式の高い古社であることを伺える。
式内社とは官社で朝廷より幣帛を奉られる神社のことで当社は由緒ある神社として朝廷から厚く崇敬をうけていることを物語っている。 戦国時代に織田信長の兵火を避けるため八幡宮と称したことことから明治維新まで小島八幡ともいわれ近郷の信仰を集めました。
御本殿は唐破風八幡造りで大正9年に建立され県下でも指折りの立派な社殿で文化財としての価値も高く近年では延宝より拝観に訪れる参拝者が絶えない。
八幡鳥居(表参道南入口)は高さ3mの御影石造りの鳥居で神額には八幡宮と刻まれているが凡そ鎌倉時代に建てられたものと推定され近郷では最古のものでこの頃には神社としての施設が確立していたことが伺える。

社頭掲示板



耳常神社

耳常は是も美々止なるべし〇祭神詳ならず○小島村に在す、(考証、俚諺)
北勢古志云、此神社は微古録、古谷双紙、俚諺抄の類の書に、小島村に在よし云り、今此村に神明社、八幡社、云々とぞ、中に八幡宮と唱ふるぞ則それなると云伝へたり、さて祭神は大地立神也と云り、されど例の拠をしらず、一説には応神天皇を祭ると云り、さては今の俗称には叶へるが如くなれども頼み難し、』連胤云、前なる耳利神社の條考へ合すべし、

神社覈録



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