平坦な田地の中に鎮座する。 社名は地名に関連する社名ではなく、神徳を負う社名と考えられる。 この地は「内宮豊田郷御厨」と見え、古くより神宮由縁の地であり、おそらくは豊田の名が示す穀物豊饒の神として豊受気姫命を祀る社が古代に創祀されたのであろう。 相殿に天津児屋根命を祀るのは、鎌倉初期以來、頼朝の御家人である加藤次景廉が北勢に勢力を張り、以来加藤氏の庇護をうけたことにより、その祖神たる天児屋根命を祀つたと考えられる。 |
由緒 延喜式神明帳所載朝明郡二四座の内一座なり伊勢国神明帳考証に按八十積称二盈積一之詞顕二豊饒之神徳一也椋倉也今在二豊田村と亦神宮雑例集に伊勢大神宮の内朝明郡以十四町に二反為供田云々現に伊勢田宮田と称する地名あり。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
八十積椋神社 由緒略記 延喜式内 神名帳所載朝明郡廿四座の内一座なり 伊勢の国神名帳訴証に検し八十積椋盆積と称し豊饒之詞顕鎮の神徳を顕す也椋は倉也 今在豊田村在り社地平□神宮雑例集に伊勢大神宮の内朝明郡以下十四町に友供田の現在伊勢之内神領宮田と称する地名あり 延喜式内八十積椋神社 社務所 社頭掲示板 |
八十積椋神社 八十積椋ば夜曽都美乃久良と読り○祭神詳ならず○豊田村に在す、(考証、俚諺)、 北勢古志云、此神社は豊田村に在よし、微古録、古谷双紙、俚諺抄、又或書などにも云り、今考るに、此村はただ一社産土神あるのみにて、外に有事なし、若くはそれか、おのれいまだ詳にせず、猶よく考ふベし、古谷双紙、俚諺抄には、祭神飯豊姫命として、八十積は豊饒の義、椋は倉也と云り、こは皆豊田といひ、八十積椋どいへるにつきての推当事なれば、うなひ難し、総て猶よく考ふべし、 神社覈録 |