鳥出神社
とりでじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】鳥出神社 伊勢国 朝明郡鎮座

   【現社名】鳥出神社
   【住所】三重県四日市市富田2-16-4
       北緯35度0分17秒,東経136度39分22秒
   【祭神】日本武尊 事代主命
       (配祀)天照大御神 豊石窓神 大鷦鷯天皇 菅原道真 櫛岩窓神
       波迩夜須毘古神 波迩夜須毘売神 応神天皇 天児屋根命

   【例祭】8月14日 例祭
   【社格】旧県社
   【由緒】創祀の年代は詳らかでない
       安永9年’1780)11月回禄の災
       明治2年3月明治天皇御東幸の際官幣使参向
       同6年3月村社
       同8年12月教部省から式内社確定
       同39年神饌幣帛料供進社指定
       昭和17年7月県社

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録はない
        所在地に異説はない

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「飛鳥明神」「若一権現」と称していた
   【公式HP】 鳥出神社
   【社殿】本殿神明造
       拝殿・神門・神饌所・神馬舎・手水舎・社務所

   【境内社】
   【境内図】 境内図

富田駅南、線路の西に接して鎮座する。
日本武尊が能褒野(のぼの)で死去したときに、尊は白鳥となって熱田に向かったが、その白鳥がこの地に憩いまた飛び発ったところから「鳥出」と名付けられたと言われている。
この地は富田御厨の地とされ神宮御厨の一とされている。
当社を式社とするに異論はない。
当社本殿の造営は神宮式年遷宮の時の古殿の用材を拝領して行われる古例がある。
当社の有名な神事に、鯨船行事がる。地元の四町からそれぞれ鯨船が曳き出され、四隻の鯨船で捕鯨の様子を表現する本練では、鯨の発見から銛打ちまでを鯨船を利用して演じている。


鳥出神社

縣社 鳥出神社
三重縣四日市市大字東冨田 鎭座
御祭神 日本武尊
    事代主神
    末社 二座 合祀 十六座
御由緒
、本社は、延喜式内、伊勢國朝明郡二十四座中の鳥出神社にして、主祭神日本武尊、事代主神を齋き奉り古來、朝明地方に於ける中心の神社として崇敬せられ、徳川時代には「富田六郷の総氏神」たりしことは、今も人口に会灸たり。安永年間、不幸火災に罹り古博を失ひたるも、古典中には本社に関する丈献多し、之を抄録すれば
神名帳考証三(伊勢朝明郡)出口延経 鳥出神社富田村鳥鳴海神爲正北方富田村社称飛鳥社神賀詞奈流美命古事記言大國主神生子鳥鳴海神今言富田
大日本史 二百五十四(神祇十一、神社六、伊勢國朝明郡)水戸藩
鳥出神社〔今在東富田村飛鳥明神〕伝言、祀日本武尊(古事記傳神社要録)日本武命薨世、葬之能褒野神霊化白鳥、白北域出而飛去(日本書記、古事記)社號蓋因此
古事記傳二十九 (日代宮、四之巻)本居宣長
鈴鹿郷能煩野より、濱に向ひ往座むには奄芸郡、河曲郷、三重郡の内の海辺なるべし、鈴鹿郡の東南方より東北方に亘りて、此三重郡並て海は其東なればなり、又、神名式に朝明郡に鳥出神社あり、或説に此れ、倭建命の白鳥と化て飛出給ひし地なる故に、鳥出とは言なり、今は此あたりを富田と言ふは、登利伝を訛れるなるべし。
明治2年3月、明治天皇 御東幸の御砌に亀井中將を官幣使として参向、奉幣せしめ賜ひ、御神徳いよいよ高く、地方近郷の総氏神社として、崇敬益々深きを加ヘ、明治39年12月、三重縣告示第380號を以て、神饌幣帛料供進社に指定せられ、明治40年及41年には近郷の神社を合祀し総て鳥出神社と単称す。
本社の造営に当りては古く天正13年以來、神宮御式年御造営毎に、神宮の御建造物を拝領し、今日に及び現今の御本殿、御神門、瑞垣、鳥居社務所等何れも御古材に拠り営繕せられたるものなり、昭和17年7月21日神砥院153総第3號を以て社格を縣社に進められたり。
祭祀
歳且祭   一月一日
元始祭   一月五日
山神祭   一月七日
紀元節祭  二月十一日
初午祭   旧初午日
天神祭   二月二十五日
桃節句   三月三日
学童卒業祭 三月十日
祈年祭   三月十五日
春季皇霊祭 春分ノ日
勧学祭   四月四日
天長節祭  四月二十九日
菖蒲祭   五月五日
大祓    六月三十日
蛭子祭   旧六月二十日
例祭   八月十四日・十五日・十六日
秋季祭  十月十三日・十四日・十五日
明治節祭 十一月三日
新嘗祭  十一月十三日
七五三神事十一月十五日
大祓   十二月三十日
除夜祭  十二月三十一日
特殊神事
例祭 八月十四日 鎮火祭
当日、氏子各町内青年は、若屋(青年取締の町内中老にして祭礼は勿論平素に在りても青年の世話監督をなす)に集合して、丈余の笹竹に特種な松火(藁を以て造る)を釣りたるを神前廣揚に運ぶ、往時は鐘太鼓にて道中せしも今は廃れたり、神前に参着すれば勢揃ひして、先づ縄銭(荒縄に取つけたる賽銭)の数輪を奉献して神職御神火を松火に移す、燃ゆる神火の笹竹は若者達に依りて振舞はさる、これに依りて悪魔神を払い除き、氏子の無事息災を祈念する。此神事を修了して、初めて鯨船の練行が開始せらるゝものなり。
例祭 八月十五日 鯨取神事
柱古の捕鯨を神事としたるもの、鯨船の燦美は筆舌に尽くし難く、観る人をして唖然たらしむべく、荒海に鯨追ふ所作をなす様は、豪快、海國民の本領を発揮して遺憾なし。
天明元年御座船を造り相殿の漁神若一権現の御旅所に渡御あり、此年大漁なりしと、御座船は今社宝となる。鯨船神事も此時より始ると云う。
祀職
江戸時代以前に於いて執奏家に関する古伝あるも詳ならず、寛文8年、神社御改帳には吉田家の支配に関し、喜多嶋家祀職は、大織冠藤原鎌足公三十三世、吉野中納言藤原正高卿の三男、徒四位直興卿、以來代々鳥出神社に奉仕し連綿として、今日に及べる、世襲の神官なり。

由緒書



鳥出神社の鯨船行事

重要無形民俗文化財
「鳥出神社の鯨船行事」は、北勢地方に分布する全国的にも珍しい陸上の模擬捕鯨行事の中で最も典型的なものです。行事は氏子圏の4つの組(北島組・中島組・南島組・古川町)からそれぞれ1隻ずつの豪華な彫刻や幕で飾られた鯨船山車(神社丸・神徳丸・感応丸・権現丸)が出され、これで張りぼての鯨を追いかけ、反撃を受けては再び追い詰めてこれを仕留めるという一連の演技を繰り返し行うものです。祭日は8月14日と15日に行われ、14日に町練り、15日には鳥出神社への練り込みが行われます。この行事は鯨を大漁や富貴(ふうき)の象徴と見なし、これを仕留める演技を行うことによって大漁や富貴を祈願する行事として民俗学的に注目されています。(『北勢鯨船行事調査報告書』参照。)

四日市市HP



鳥出神社

御由緒 本社は正応元年と安永9年の大火によって、古文書を消失したため詳らかではないが、神名帳に記されていることから、延喜五年(905)頃にはすでに存在していたと言える。
延喜式内社で朝明地方(24座中)に於ける中心の神社として崇敬を受けていた。また、徳川時代には「富田六郷(東富田・北島・西富田・松原・富田一色・天カ須賀六村)の総氏神」としても信仰を集めていた。
明治2年3月明治天皇が御東幸された折に亀井中将を官幣使として参向させ、奉幣されたことにより、御神徳がいっそう高くなり、地方近郷の総氏神社としてますます崇敬を深めたと、明示39年12月、三重県告示第380号を以って、神饌幣帛料供進社に指定され明治40年及び41には近郷の神社を合祀し、昭和17年には県社に列せられた。
社名の由来については「神名帳」に「倭建命の白鳥に化して飛出給ひし地なる故に鳥出といふ」とあり、また本社が鎮座する地名を富田というのは登利傳(とりでん)が訛ったものと言われている。
本社に関する古典中の文献(以下 抄録)
・神名帳考証 三 (伊勢朝明郡)出口延経
 鳥出神社 富田村鳥鳴海神為正北方富田村社称飛鳥社神賀詞奈流美命古事記言大國主神生子鳥鳴海神今言富田
・大日本史 二百五十四 (神祇十一、神社六、伊勢國朝明郡)水戸藩
 鳥出神社【今在東富田村飛鳥明神】傳言、祀日本武尊(古事記傳神社 録)日本武尊 世、葬能褒野神霊化白鳥、白北域出而飛去
・古事記傳 二十九 (月代宮、四之巻)本居宣長
 鈴鹿郡能煩野より、濱に向ひ 座むには 奄芸郡、河曲郡、三重郡の内の海邊なるべし、鈴鹿郡の当南方より
 東北方に亘りて、此三重郡並て海は其東なればなり、又、神名式に朝明郡に鳥出神社あり、或説に此れ、倭建命の白鳥と化て飛出給ひし地なる故に、鳥出とは言なり、今は此のあたりを富田と言ふは、登利傳を訛れるべし。 
ご遷宮の古材
本社本殿の造営に当たっては、神宮式年遷宮の時の古殿の用材を拝領して行われる古例があり、社記によると、その最古の例は、天正13年にさかのぼる。その年10月15日に外宮御遷宮の後の鳥居拝受のことが記され、以降寛永6年、慶安2年、寛政元年、明治2・22・42年、昭和4・48年にも、その事があったと社殿の由緒に記されている。現在の本殿は昭和4年、内宮月讀宮殿の古殿用材の拝領のものである。また、昭和48年には、外宮の宿衛舎内玉垣御門の用材を、平成5年には鳥居を拝受している。
神職
現在の宮司は15代 喜多嶋敏彦(当社本務)である。喜多嶋家は累代当社の社家で『喜多嶋家系図』によると 大織冠鎌足公33世 吉野中納言 藤原正高卿三男従4位上 直一に始まり 現在も世襲制である。

公式HP



烏出神社

祭神 日本武尊ほか十一柱
烏出神杜は、「大日本地名辞書」に「延喜式朝明郡に属す。今富田村に在り。古事記伝に云う、倭建命の陵造の時、八尋の白鳥に化して天翔り、浜に向かいて飛び行きぬと云う由見ゆ。鳥出神社、一説に其白鳥の飛び出給いし地と云う。富田とも云う。鳥出の訛れるなるべし」とある。また、密接な関係にある、近隣の富田山長興寺が、創建当初は、悲田院となっていたといわれており、往古より当社も「ひでんさん」とも呼ばれていた。また、『三国地誌」によれば「烏出神社あんずるに東富田村に座す。若一権現と称す」とある。若一権現とは紀州熊野の権現(漁業の神)を勧請したもので、烏出神社は別名を(権現さん)とも呼ばれていた。
本社は、天正年間(1573〜92)の頃より伊勢神宮の古材を拝領する由緒をもっている。
現在の本殿は、昭和4年(1929)に、神宮内の月読宮を、正面大鳥居は、平成7年に、内宮二の烏居を拝領したものである。
富田地区文化財保存会

社頭掲示板



烏出神社

鳥出は止利弖と訓べし○祭神日本武尊、(古志)○東富田村に在す、(考証、俚諺)、今飛鳥大明神と称す、(古志)
北勢古志云、此神社は東富田村にありて、飛鳥大明神とよべり、徴古録、古谷双紙、俚諺抄なども則然り、さて祭神は右の書どもに、或は白鳥神と云、又鳥鳴海神也といふ、今考るに鳥鳴海と云は誤にて、白鳥神なる事明けし、抑白鳥神といふは、倭建命の御霊にして、爰に鎮坐るよしは、鈴鹿郡能煩野にて崩ましゝを、日本紀に、即詔群卿命百寮、仍葬於伊勢國能煩野陵、時日本武尊化白鳥、從陵出之指倭國、而飛也、とみえ、又古事記には、於是、化八尋白智鳥、翔天而向濱飛行、とみえたり、かくては飛去給へりし方角、日本紀の伝へにては西、古事記の伝へにては東にて、倭へ向賜へると、濱へ向給へりとにていたく違へり、故古事記伝云、鈴鹿郡能煩野より濱に向ひ往坐んには、奄芸郡、河曲郡、三重郡の内の海邊は其東なればなり、又神名式に、朝明郡に鳥出神社あり、或説に、是倭建命の白鳥に化て飛出給ひし地なる故に、鳥出とはいふ也、今は此あたりを富田といふは、登利傳を訛れるなるべし、大和國の琴弾原の地をも、富田と云る同故事にて、同名なるを思ふべし、さて此烏出神社、今は飛鳥社と云也と云り、朝明郡は三重郡の北なれば、能煩野より倭國を指て往坐むには、いよゝ方は迂遠し、然るに旧事紀に、日本武尊平東夷還参、未参薨於尾張國矣、と云る説あり、さて又、尾張國愛智郡白鳥村に、白鳥社有て、此尊の陵也と云伝ふ、一説には、天武天皇御世に、かの白鳥三陵に准ヘて、彼尊の神霊を爰に祠り給へる也とも云、いつれもざだかならぬ事なれども、若くは能褒野御陵より出給ひて、先初に東北を指て、朝明郡の海邊に向ひて飛行まして、尾張國に至りて留坐る地に御陵を造れるが、愛智郡なる白鳥社にやあらん、さて次に、其御陵より又飛去て、倭国に飛行ましゝ事をぱ、日本紀には、始に尾張國に飛行坐し事を伝漏し、此記には、尾張をも倭をも漏して、後の河内のみを伝たるにや、さて旧事紀の説は、かの白鳥の留坐し地に、御陵を造りしを誤りて、彼国にて薨ぬと伝たるにもやあらん、是等は慥に云べき事にはあらざれども、此記に向濱飛行とあると、尾張國にも白鳥陵あると、旧事紀の説にかれこれを合せて思へば、若然る事もやありけむ、尾張国には、草薙劒を置て來坐つれば、神霊のまづ其國へ飛いまさん事も由なきにあらず、朝明郡の鳥出社も、尾張へ向ひ賜ふには由ある地方なれば、彼是合せて然はいふ也とあり、今思ふに、倭の事弾原にも則富田村ありて、爰に又鳥出神社富田村ある事、おのつからの理にて、人の設たるわざならず、又古伝の異同も、右の説の如くにてぞいとよく聞えたる、

神社覈録



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