池の辺の神社。池を挟んで鳥居がある。 伊勢国風土記には欽明天皇二年に始めて此の神を祀るとみえているが、創祀年代は詳らかではない。 社記によると古より菊桐の御紋を社紋としてつけてきたという。 宇賀神社と呼ばれていたこともあり、桑名郡の式内社に同名の神社があり、当社を比定する説もあった。ただし現在、当社は式内社「宇賀神社」の論社ではない。 |
菟上神社 勧請年月不詳。『宝永8年(1711)の村差出帳』に、「氏神神明、八幡、明見、西明寺、天王、天狗、山之神」とある。『伊勢輯雑記』に、「宇賀神の社 祭神宇賀神庚申と称し奉り猿田彦命也、『布留屋草紙』に曰、宇賀村宇賀神社神名帳に出、祭神宇賀御魂神と云々、今按に宇賀神社の社号は延喜式員弁郡十社の内に見えず、桑名郡一五座の内に宇賀神社と云ふ社名見えたり、其の祭神は『伊勢式内神躰考』曰、倉稲魂神と云々、桑名郡内に其の社を不拝定めて当社の事か。一説には当社は妙顕の社也ともいへり、又、旧事記を考ふれば、宇迦能山に大己貴神須世理姫宮柱太しく立てる由見えたり、当社の事なるにや。拝殿あり近年建立、村の惣産社にて往古は大社なりき。神明宮 村の内に在り。牛頭天王社 村の内に作り。西の明神社 在り。天白大明神の社 三下道の辺田所の中に在り。八幡宮 天白社境の北の方字粟田と云ふ所に在り。最明寺社 神殿東向祭神の事旧記に、最明寺入道時頼公諸国徴行の砌、当国に来り福王山の麓則此所に暫笈をゆるめて御休足なし給ふ、時に御詠歌あり、其旧跡に御霊を勧請する所也と。一説には其の事西行法師の事也と、されば当社は西行社也と見えたり、『東海道名所図会二巻』曰、西行庵跡朝明川上の方二里計、福の山の麓也と云、今旧跡定かならずと云々。『山家集』に曰、伊勢の西福山と云所に侍りけるに庭の梅芳しく匂いけるを、《柴の庵によるよる梅の匂ひ来て やさしきかたもある住いかな》西行法師と云々。 『新編伊勢名所拾遺一巻』には、此山家集を引きて西福王と出し、郡不知の部に載たり。『田口福王山根元記』に曰、最明寺時頼公暫田口村西行庵に滞留の後、福王の麓北川の辺りに庵を結び一ケ年の間寓居し給ふ、今の宇賀村地内最明寺の宮是也。里人仁徳を慕ひ庵の跡に最明寺殿を勧請す、是旧跡の印也、社境の外注遷迄の間詣道の並木文化7年(1810)所植也。」と記されている。 皇學館大学現代日本社会学部神社検索システム研究会 |
菟上神社 菟上は宇奈加美と訓べし〇祭神詳ならず○宇賀村に在す、(俚諺、古志) 北勢古志云、此神社徴古録には、中上村に在よし云れど非也、俚諺抄に、字賀村にありと云るぞよき、凡今の世宇賀社の内に、妙見社、云々、七社あるが中に、妙見宮と云るぞ則それなるといひ伝へたり、云々、ざて祭神は、いつれの神とも知られねば、さても有べきなれども、試に強ていはば、古事記に、開化天皇御孫大俣王之子に、曙立王、菟上王ありて、御兄曙立王は、伊勢之品遅郡君、伊勢之佐那造之祖とみれば、其因によりて、御弟の御霊の、此あたりに鎮座ん事も、むげに由なきに非ず、又国造本記に、穂国造、泊瀬朝倉朝以生江臣祖葛城襲津彦命四世孫菟上足尼定賜國造、と見えて、姓氏録に、生江臣、石川朝臣同祖、武内宿禰之後也、とあればもしくは是にもあらんか、云々、武内宿禰の子孫の、此あたりに由あるもの是彼いと多ければ、是も其類にやとも思はるゝ也、右の二の中、後の方ぞ猶似つかはしく覚ゆるよし、されど例の祭神のみうへを、さまで言痛はいはでもありなん、 類社 美作國大庭郡菟上神社 神社覈録 |