伊賀留我神社
いかるがじんじゃ 所在地 社名

















   【延喜式神名帳】伊賀留我神社 伊勢国 朝明郡鎮座

   【現社名】伊賀留我神社
   【住所】三重県四日市市羽津戊523
       北緯35度0分23秒,東経136度37分57秒
   【祭神】天照大御神荒魂 (合祀)大年神 大山祇神 天武天皇 祭神不詳
       『考証』意富伊我都命
       『再考』倉稲魂
       『勢陽雑記拾遺』『古屋草紙』大日霊貴

   【例祭】10月16日 例祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】創祀年代は不詳
       明治6年3月村社
       同35年2月13日郷社

   【関係氏族】
   【鎮座地】寛永年中に分村して祀られる

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「齋宮大明神」と称していた
   【社殿】本殿神明造銅板葺
       拝殿・手水舎・社務所・倉庫

   【境内社】

垂仁天皇のとき額田部の子孫が天照大神を奉斎して鈴鹿忍山宮への巡幸中に休んだ場所に天照大神の荒御魂を祀ったと伝えられる。
また壬申の乱に天武天皇の神宮遙拝の地でもあるともいう。
付近一帯は神鳳鈔に見える「鵤の御厨」に当たり神宮と深い関係を持つ土地である。
織田信長の兵火で焼失という。
南伊賀留我神社には別当寺として斑鳩山大膳寺があったと伝えられ、円融天皇天延2年伊勢に下向した比叡山の僧良源の弟覚鎮が開創し別当となったという。


日待祭(ひまちさい)

三重県北部、 四日市市羽津に鎮座する伊賀留我神社 (宮司 岩田健司) では、 例年、 祈年祭の前夜、 2月15日の夕刻より、 16日の早朝に亘って日待祭が執り行われている。
  『神道名目類聚抄』 に “日待は前夜より潔斎し、 明旦の日の出を待って拝す。 (中略) 故にこの名あり” とみられる。 天照大神は、 我が国至尊の大神であり、 その広大無辺なる御神威は、 太陽の御光として仰がれているが、 日待はあくまでも、 祈年祭などの重儀なるお祭りを控えた前夜の厳重な精進潔斎にもとづく忌籠りに、 本来的な意味があったと考えられている。
 かつては、 羽津地区でも、 祈年祭をはじめ大祭の前夜に、 その都度行われていたようである。
 伊賀留我神社の日待祭の歴史は古く、 地元の古老の言い伝えではあるが、 今から二百余年前、 江戸後期の天明4年頃に遡るといわれている。
 古くは女人禁制で、 直会の準備からすべてを宮守青年団によって行い、 まず日待の宿を2月10日の夜に決める。 それは、 団長宅にて、 三方にのった氏子各戸の名前が書かれた名札を、 御神酒を浸したお札で撫で、 お札に張り付いた家を日待の宿とする神占神事である。
 昔は、 神様から選ばれたと、 誉れなことであった。
 日待祭当日の夕方になると、 宿をつとめる家の床の間に、 古くより伝わる神殿が飾られ、 天照大神のお札をお祀りして、 紋付・袴に正装した区長、 氏子総代、 組長らが参列して、 日待祭が斎行される。
 直会ののちは、 眠ることなく神殿をお守りし、 親睦を深め、 同じ地域に住む仲間意識を確かめ合いながら忌籠ったそうである。
 午前3時頃になると、 全員が宿の風呂に入って身を清め、 午前5時、 神殿を庭先に移し、 日の出を待って順次拝礼。 その後、 神殿を交代で担ぎ、 伊勢音頭を唄いながら神社へと向かい、 無事御奉仕申しあげた旨の奉告祭を行い、 続いて午前10時からの祈年祭に臨む。
 この歴史ある日待祭も、 時代の流れと共に、 生活様式も異なり、 地区地域の人口の増加により、 昭和53年からは、 自治会役員、 氏子総代、 組長等によって行われるようになり、 宿も町の公民館に固定されて現在に至っている。
 伝統ある神事や儀礼というものは、 私たちの祖先が長い歴史の中で、 深く生活に根ざした一つの必然によって成り立つものである。
 氏神、 氏子意識が薄れつつあるなか素朴な信仰を伝え、 祖先を尊ぶ氏子の方々の強い心によって、 今日までこの日待祭が継承されていることは、 誠に注目に値するものと言えよう。

三重県神社庁「みあかり」第18号



伊賀留我神社

延喜式内伊賀留我神社者祭神 天照大御神也攝社稱齊宮者祭神倭姫命鎮座伊勢國朝明郡額田郷鵤村額突山東字班鳩有年矣及明治三年官考覈諸社里正某神官森氏乞余録該社之事余謝不敏而不允不得己而諾及敢盡駑鈍之力謹校舊典皇太神宮儀式帳及倭姫命世記云活目天皇御世皇大神從桑名野代宮遷産鈴鹿忍山宮之際頓宮此地即進神御田鵤御厨三町見于神鳳鈔若夫別當寺者曹當寺者曹洞宗而称班鳩山大膳寺天正七年離回禄而亡因云額突山麓天武天皇社者白鳳元年夏六月潜幸之際於朝明郡迹太川邊望拝天照大神時獻淅因洗米於迹太川自後方俗呼之米洗川也以故垂阪村奉麹於太神宮及禁裏御所所謂額田御厨是也確證如此後世堙没是懼故建碑以刻其由縁焉

社頭石碑



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