伊賀留我神社
いかるがじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】伊賀留我神社 伊勢国 朝明郡鎮座

   【現社名】伊賀留我神社
   【住所】三重県四日市市茂福483
       北緯35度0分29秒,東経136度38分3秒
   【祭神】大日霊貴命 (配祀)大山祇命
       『考証』意富伊我都命
       『再考』倉稲魂
       『勢陽雑記拾遺』『古屋草紙』大日霊貴

   【例祭】10月20日 例祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】創祀年代は不詳
       明治6年3月村社
       同35年2月13日郷社

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】鵤御厨
   【祭祀】江戸時代は「齋宮大明神」と称していた
   【社殿】本殿神明造桧皮葺
       拝殿・社務所・手水舎・社庫

   【境内社】

南北に2社の伊賀留我神社が員弁街道をへだててあり、両社の間は250mほどである。
鵤村はもと一村であつたのが、寛永年中に南北二村に分れた、北の当社は北鵤村、齋宮大明神とか、北鵤村伊賀留我神社と称した。
分村した南鵤村(忍藩支配所)にも新たに伊賀留我神社齋宮大明神を祀り、ここに新旧二社が併立となった。
その後安永8年に両村の氏子で本社末社の争論が起つた。
社記によれば鵤御厨の地名より起り、創祀年代は不詳である。
天正の信長の兵乱によつて古記が失われて由緒は不詳である。
伊賀留我神社は安永8年(1799)本社末社の争論が起こった。


伊賀留我神社

祭神 天大日霊売命(天照大神)
   倭姫命・少彦名命・大山祇命
延喜式神名帖(1300年程昔)に記載されている、富田地方では最も古く由緒ある神社である。
神鳳鈔には「延喜式朝明郡伊賀留我神社、神域三丁また斎宮大明神とも称す」と書かれでいる。
また、和名抄には「伊賀留我神社、天大日霊売命、斎宮、是れなり、この側に流れる川を呪志川(現在の十四川)という」と記している。
現在、鵤は南北に分かれ、双方に伊賀留我神社が存在している。桑名藩の記録によると、「寛永の頃(1624〜1643)に分社した」とある。
神鳳鈔にしても、和名抄にしても、伊賀留我神社のことを斎宮と記している。斎宮は、伊勢神宮の斎宮であり、倭姫命を祭神としている事から、伊勢神宮との深い関わりを感じさせる。また、鵤の地名は大和斑鳩の地との関わりも伺う事がでさる。ここ鵤は聖徳太子の御料地であったという言い伝えもある。
伊賀留我神社は「いのこ神事」の名残りの大太鼓、大鉦が今に伝えられている。
富田地区文化財保存会

社頭掲示板



伊賀留我神社

伊賀留我は假字也○祭神詳ならず○鵤村に在す、(考証、俚諺)○神鳳抄云、鵤御厨三町、
北勢古志云、俚諺抄には額田部祖神、古谷草子には太神宮荒魂なりとして、天武天皇此所より遥に齋給へりし跡にて、則そこを齋と云、又或書(此或書といへるは、考証に合へれば、是をいふなるべし、下皆同じ、)にも然いへり、今思ふに、桑名郡額田神社の所にもいへる如く、額田部氏は此あたりに彼是由縁あれども、此神社は猶天照大御神の荒魂也とせむ方然るべきか、天武天皇の御故事は、いと慥なる事にて、則天皇のぬかづかせ給へりし山を、今もぬかつか山と云伝へて、此所なる事疑なし、云々、然もあらんか、されど連胤按るに班鳩の地名は、大和國平群郡なるが、いと大名にしもあれば、由縁ありていづれの神かは志られねど、彼國より移し祀れるにはあらぬか、さるは隣なる員弁郡に、平群神社あり、是も彼國に由縁ありとしられたり、

神社覈録



郷社 伊賀留我神社

祭神 天照大御神之荒御魂神
合祭 大山祇命 天武天皇 大年神
天武天皇白鳳年中、軍を当村に避け車駕を駐め給ひし蒔、天照大御神を鎮祭せしに創ると云ふ、然れども天正年中織田氏の兵焚に羅り、社殿及び古記録類灰燼に帰せしを以て、之を詳知するを得ざれども、神名帳考証に、「伊賀留我神社、今在。鵤村、四日市乾行程廿五町、伊香我色乎命、按留助語也、倭名鈔云、額田、天津彦根命孫意富伊我都命之後也」と見え、神名帳考証再考によれば。「伊加留我神社、社地直に鵤村と云ふ、和名抄禽部に、鵤(伊加流加)、神鳳抄、鵤御厨とあれぱ、祀神倉稲魂なり」とあり、また神社覈録に云く、「伊加留我は假字也、祭神詳ならす、鵤村に在す、」神祇志料に云く、「今北鵤村の南に在り、齋大明神といふ」、分注に「按検録云、同村伝来の古祝文、トウシヤハ、アマノヲゝヒコノミコトとあり、当社は天大彦命なるべしと云ひ、蓋御厨の地なるを以て。太神宮を斎祭る、毎年1月9月16日祭を行ふ」と見え、共に朝明郡(明治29年三重郡に併入せらる)廿四座の中に列し式の小社とす、北勢古志に云く「俚諺抄には額田部祖神、古谷草子には太神宮荒魂なりとして、天武天皇此所より遥に斎き給へりし跡にて、則そこを斎と云ふ、又或書(此或書といへるは考証に合へれば是をいふなるべし)にも然いへり、今思ふに、桑名部額田神社の所にもいへる如く、額田部氏は此あたりに彼是由縁あれども、此神社は猶天照大御神の荒魂也とせむ方然るべきか、天武天皇の御故事は、いと慥なる事にて、則天皇のぬかつかせ給へりし山を、今もぬかつか山と云ひ伝へて、此所なる事疑なし云々、連胤按するに、斑鳩の地名は、天和國平群郡なるが、いと大名にしもあれば、由縁ありていづれの神かはしられねど、彼国より移し祀れるにはあらぬか、さるは隣なる員弁郡に平群神社あり、是も彼國に由縁ありしとしられたり」と云へり、斑鳩宮式社案内記には、「伊賀留我社鵤村に座して長谷神社より乾を去ること五丁」と見ゆ、五鈴遺響に云く、「鵤村にあり、神社二宇あり、南社北社と称して其間二町計を隔たり、各林中に坐す、南の社本社なり」、又云く、「神社より申酉位一町ばかりに赫土山あり、麓に天武社と称する一区あり、方谷齋大明神と称す、案内記に本社を然云ふといへ共妄なり」と云ひ、三國地志には、「六人部津根麿は本郡鵤村の人にして、鵤の神祠は其祖先を祀ると云ふ、姓氏録に云く、六人部火明命五世孫武廣日命之後也」とあり、桑名藩取調書に云く、北鵤村俚俗斎大明神と云ふ、鵤村元一村なりしが、寛永年中南北両村と分れ、南鵤村にも伊賀留我神社齋宮大明神を祭れり、安永8年両村氏子本社末社の争論起り、双方より吉田氏へ訟訴するに依て隣境社家へ取扱を命ぜられ、双方取調べ北鵤を本社と決し、良延卿自肇にて総社伊賀留我神社 と云ふ額面神号を北鵤村へ下られ、伊賀留我神社と云ふ神社を南鵤村へ下られ事済たり云々、」而して今大日本地名辞書によれば、富田の條下に、羽津村の北に在りと云へり、明治8年村社に列せられ、同35年郷社に昇格す、同41年墳内杜斎宮大明神社、同山神社二座、同邪軍神社、及び無格天武社を合祀す、社殿は本殿、拝殿の二宇にして。境内坪数207坪(官有地第一種)を有す。

明治神社誌料



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