椿岸神社
つばきぎしじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】椿岸神社 伊勢国 三重郡鎮座
          (旧地)椿岸神社【旧地】

   【現社名】椿岸神社
   【住所】三重県四日市市智積町684
       緯34度59分35秒,東経136度32分32秒
   【祭神】天宇受売命 (配祀)猿田毘古神 天照大御神
       (合祀)豊受大御神 天児屋根命 豊臣秀吉 素戔嗚尊 木花之開耶姫命 倉稲魂命
       品陀和気命 市杵島姫命 八街比古命 八街比売命 大山祇命
       明治『神社明細帳』猿田毘古大神・天宇受売命・天照大御神

   【例祭】10月10日 例祭
   【社格】
   【由緒】由緒不詳
       享禄2(1529)年兵火で焼失
       永禄3(1560)年現在地に再建
       明治39年12月神饌幣帛料供進社

   【関係氏族】
   【鎮座地】もとは桜村にあった
        享禄2(1529)年兵火で焼失
        永禄3(1560)年現在地に再建

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「七郷の惣社」と称していた
   【公式HP】 椿岸神社
   【参考HP】 椿岸神社
   【社殿】本殿神明造
       拝殿・社務所・宝庫・祭具庫・忠魂殿

   【境内社】八幡神社
   【境内図】 境内図

金渓川と矢合川に狡まれた丘陵地の先端部から沖積平野へ漸移する場所に鎮座。街中の神社である。
往古、桜村地内字椿尾(現・桜町西)にあり奥七郷(智積を首邑として、佐倉、桜一色、森、赤水、海老原、平尾)の総社であったが、享禄2年(1529年)兵火のため灰燼に帰した。 永禄3年(1560年)智積の邑内に起工して、椿尾の神社遷座した。
天平14年(740年)聖武天皇が伊勢国へ行幸した時に、椿尾山中の椿の木で獅子頭を2つ作り、一つを現・鈴鹿市山本町の椿大神社、他の一つを当神社へ奉納した。その獅子頭二頭は、同木で作られた兄弟あるいは姉妹であると言われており、互いに会いたがって、往古から椿神社から椿岸神社へ会いに来るのだと言い伝えている。
その獅子頭は今も残っており、四年に1回、閏年に、椿岸神社社殿前で、椿神社の獅子舞が奉納されます。 その時、椿岸神社の獅子頭は社殿に据え置かれる。
椿岸神社の獅子舞は、平成4年6月30日、四日市市指定無形民族文化財とされた。
毎年椿岸神社秋季例大祭の前日には獅子舞が奉納され、拝殿前で、椿岸神社獅子舞保存会による獅子神祈祷神事が執り行われ、獅子舞が披露される。
この椿岸神社の獅子舞は、伊勢国一之宮である椿大神社を本拠地とする山本流に属すが、元祖である椿大神社にも伝わっていない椿岸神社独自の演目一段を含む十三段からなっている。


椿岸稲荷神社

平安時代中期・・・・この地は鎌倉初期に公家中御門の所領となった。
室町末期以降中御門家の支配権も蓑退していった。
中御門家は藤原氏の出で松木家を名乗ったが天文17年(1548)当主宗藤は戦乱を避けて、息女加賀姫(別名幸田姫)を伴い桜一色の家臣町野清兵衛を頼り当地に隠遁した。
加賀姫ば当時30才位であつたという。
また、加賀姫は99才の長命だったと伝えられ、智積村西端の加賀屋敷(矢形(館)に在つたとも言われる)に往し、姫御前平(西高校)は所有地と思われる。
晩年、信仰する伏見稲荷を分祀し佐倉の大門に幸田神社を建立したが、姫の自筆の棟札は今も椿岸神社に保存されている。
幸田神社は明治末期、椿岸神社に合祀されて一時姿を消したが、昔を懐かしむ人々の声により、昭和35年椿岸稲荷神社と名を変えて再建された。
桜築地域社会づくり推進委員会
桜郷土史研究会

社頭掲示板



椿岸神社

當社往古ハ智積郷旧村名佐倉村、櫻一色村、森村、神田村、平尾村、赤水村、上海老原村、七郷惣社ト云ヒ當村ヨリ一里余西方字河内ケ原智積谷椿尾ト称スル地二鎭座セリ、然ルニ此地遠隔百方不便ナルヲ以テ永録三年七郷ノ氏子協議シ村々ヨリ清土ヲ運ビテ現今ノ社地ヲ築キ以テ遷座セリト口傳フ是二依テカ今二當社地ノ土色各種二分テリ而シテ其ノ旧記等ハ傳ハラズト雖モ今二七郷有志ノ人民年始二参拝ス其ノ永禄三年遷座ノ際ノ七郷ノ棟札ハ現存ス」とある。右にいふ「椿尾」の地は、『検録』によれば「椿尾二到り、峠二登テ地勢ヲ閲スルニ、赤土ノ兀山ニシテ旧古社殿ヲ建ツヘキ形状ニアラス。椿社ノ獅子頭薦野近村二巡行スル時此峠ニシテ奏舞スルハ手向ノ神へノ法樂ニスルニテ、其峠ノ地巡り十間余ヲ智積出屋敷ノ庄左衛門獅子ノ越ル四年目毎二掃除ヲ加フル例ナルヲ以テ、旧地カマシク唱フレト、サラニ本社二関係スルコトニ非ス。

昭和27年調の神社明細帳



椿岸神社

創立の由来
伊勢の海がまだ智積の辺りまで入り込み、さざ波が立っていたほどの大昔、今の坊主尾と呼ばれている台地に我々の祖先が住みつき、生活を始めた。その頃、この土地を御守護される大神様を部落の中の清浄な所へお迎えし、お祀りしたのが椿岸神社の起源となった。その地名を今は字河内ヶ原かわちがはらの椿尾つばきおと言っている。
神社の沿革
鈴鹿山系に源を発する三滝川と矢合川が年々歳々土砂を運び次第に海岸線も遠のき、やがて日本が国家として成り立つ頃には、このあたりに多くの人が住むようになった。
古代のことは書物が残っていないため詳しいことは判っていないが、奈良の大安寺にある今から約1,250年前の天平20年の古文書には、椿社の田畑が未開墾も含めて60町有ったと記されている。
このように、広く土地が開かれ発展した桜の地には、商業も栄んとなり家並みが整い智積大寺も創建されてこの地方の文化的中心地となった。延喜の式制(約1,100年前)では国幣社が列せられるほど神威大いに輝いた。
時は移って永禄2年(約450年前)、それまで椿尾にお祀りしていた神社が兵火にかかって社殿を消失してしまったのと村が東の方に遍して開け、神社が村のはづれの遠隔の地となり、お参りやお祭りに不便となっていた為に、七郷(桜、智積、一色、森、赤水、海老原、平尾)の氏子が合い寄って協議をした結果、村の中心の現社地に移すことになった。七つの村のそれぞれの清土を持ち寄って土盛りをし、樹木を植え神殿を御造営して大神様をお遷し申し上げた。
今の境内の土質が七郷となっているのはこの時のことに依っている。以来当社は七郷の総社と称され、七村の氏子の崇敬はますます篤いものとなった。
七郷の総社
椿岸神社を昔は「七郷の総社」と呼んでいました。七つの郷とは、旧村の佐倉村(桜)、智積村、一色村、森村(菰野町神森)、赤津村(赤水)、海老原村(上海老・下海老)、平尾村のことで、この七村の総氏神様が椿岸神社です。

公式HP



椿岸神社(延喜式内社)

祭神 天之宇受女命
   猿田彦大神
   天照大御神
当社は、もと椿尾と称する奥地に在り、古くから里俗の尊信を集めていたが、享禄2年(1529年)兵火に罹って灰塵に帰した。時、恰も戦国乱離の様相日増しに濃く周辺の寺社や貴紳の別業にして戦火に遭うもの幾多、以て当地近隣にまで動乱の余波が及んでいたことを知る、これにより三十余年を経る永禄3年(1560年)奥七郷の氏子、新しく天照大神、八幡大神を勧請して、智積町御所垣内の地にこれが再建を完了し、それにより里人の崇敬いよいよ深し。言ふところの七郷とは智積を首邑とする佐倉、桜一色、森、赤水、海老原、平尾を指し一御厨を成していた、爾来世移り人改すること幾星霜明治43年一村一社の方針に基づき、旧桜村内の神社を総てここに合祀した。
昭和56年1月建立 宮司山本行隆

社頭石碑



椿岸神社

椿岸は都婆岐志と訓べし○祭神天鈿女命、(頭注)○智積村に在す、(考証、俚諺)○神鳳抄云、智積御厨、○大安寺資財帳云、三重郡河内原六十町云々、四至東椿社、南鎌山登道、西山、北牧木之限、

神社覈録



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