足見田神社
あしみだじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】足見田神社 伊勢国 三重郡鎮座
   【延喜式神名帳】弥牟居神社 伊勢国 鈴鹿郡鎮座

   【現社名】足見田神社
   【住所】三重県四日市市水沢町708
       北緯34度58分34秒,東経136度28分22秒
   【祭神】志那都比古命 志那都比賣命 瀬織津比当ス 宇加之御魂神
       (合祀)大穴牟遅命 神日本磐余毘古命 品陀和気命 大日霊命
       天児屋根命 大山祇命 天穗日命 武御名方命 須佐之男命 加具土命
       素盞鳴命 天目一箇命 天白羽命 五男三女神 別雷命
       『神名帳考証』倭建命
       『三國地誌』天御柱・国御柱
       『布留屋草紙』大日霊女尊
       『三重賦』瀬織津姫・宇賀神・天のミハしら・国のミはしら
       『神名帳考証』水澤村ノ産神
       『明治神社明細帳』志那都比古命・志那都比売命・瀬織津比当ス

   【例祭】10月4日 例大祭
   【社格】
   【由緒】由緒不詳
       明治39年12月神饌幣帛料供進社

   【関係氏族】氏
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「八郷明神」「夜後明神」と称していた
   【社殿】本殿流造
       拝殿・御饌殿・社務所

   【境内社】本殿の手前両脇にあり、本殿に向つて右が態野神社、左が祖霊社

集落の西奥の山麓に鎮座する。
垂仁天皇26年鎮座と伝える。雄略天皇21年の鎮座とも。
本来は神社西方にある標高1161mの鎌ケ岳(釜ケ岳)を神聖視していたと考えられる。
足見田神社の元宮が、鎌ヶ岳の頂上にあるともされている。
古代には、伊勢国三重郡には五つの郷があって、そのうちの一つに葦田郷(あしみたのごう)という郷があった。足見田神社はこの郷に由来する名前とされている。
ヤマトタケルが東国蝦夷平定の時に神主の「押根」が供をした。帰路、当社に立ち寄った際に「吾が足は三重のまがりの如くしていと疲れたり」と言ったことから、三重の地名がこの足見田から出たとされている。
当社に合祀された諏訪社に伝わる「お諏訪おどり」は、享保5年(1720)を創始とする雨乞い祈願の祭りである。四日市市無形文化財に指定され、毎年7月31日に水まつりとして境内において奉納されている。
御巫清直は当社を弥牟居神社に比定している。


お諏訪おどり

市指定無形文化財 芸能
お諏訪おどり
水沢は、名前とは異なり水の便が悪く、村民はたびたび旱魃に悩まされたため、水神である諏訪社を祀り敬うなど、水の確保に努めた。 庄屋辻久善は、毎年旱魃に苦しむ村民をみるたびに灌漑用水路の必要を感していた。寛永18年(1641)ついに、鈴鹿連峰鎌ヶ岳の麓、内部川上流から約2qの瀬戸用水と童子谷池の工事に着手した。この大工事の最大の難関は、7年に及ふ隣村大久保村との水争い訴訟であった。久善は江戸での訴訟費用と滞在費用を、藁草履作りなと自力で乗り切り勝訴へと導いた。
工事の完成によって、二百余町歩が潤った。
村民は、この先人の偉業に感謝するため、久善翁没後43周年の享保5年(1720)に"礼おどり"を当社に奉納した。これが、お諏訪おどりの起源である。例年7月31日、花笠をつけた6人の若者が、大きな締太鼓を首からさげ廻りり踊りをしながら勇壮な撥捌きを披露する。
昭和62年3月
四日市市教育委員会

社頭掲示板



足見田神社

祭神 志那都比古命 志那都比賣命 瀬織津比当ス  他十五柱
由緒
 当社旧記によれば、今から1900年ほど前の垂仁天皇26年に鎮座と伝えられる。古来水沢地区周辺は葦見田郷と呼ばれ、この郷をお守りする総鎮守として延喜5年(905)に式内社に列せられた。鎌倉時代以降、武将を始めとする武家の信仰を受け嘉吉元年(1441)に由井信濃守清行儀は社殿を造営し、文明15年(1483)加治石見守祐平儀は大門を建立するなど、代々の城主等は住民の安泰を願って御供田を献納し当社の奉護に尽くした。ところが永禄4年(1561)に本殿、宝蔵などが焼失し、文禄3年(1594)には幕府の方針によって多くの寄附田地が没収されたが、江戸時代に土方河内守雄久□や氏子一統らによる寄付金により社殿、末社が建立され旧観に復した。
 明治5年(1872)には村社に列し、同40年(1907)から43年(1910)にかけて水沢地区に点在した28社が当社に合祀された。その後、拝殿、祈祷所が新築されるなど境内の整備が完成し社頭は一新したのである。なお、四日市市指定無形文化財「お諏訪おどり」は、江戸時代に庄屋を務めた辻久善翁が、水不足を憂い苦労を重ねて「瀬戸用水」という農業用水を完成させた偉業を後世に伝えるため、享保5年(1720)に合祀前の諏訪社前にて、「礼おどり」を奉納したのが始まりとされ、現在でも毎年7月に当社の「水まつり」で奉納されている。

社頭石碑



お諏訪おどり

市指定無形文化財(芸能) お諏訪おどり
 水沢は、名前とは異なり水の便が悪く、村民はたびたび旱魃に悩まされたため、水神である諏訪社を祀り敬うなど、水の確保に努めた。
 庄屋辻久善は、毎年旱魃に苦しむ村民をみるたびに灌漑用水路の必要を感していた。寛永18年(1641)ついに、鈴鹿連峰鎌ヶ岳の麓、内部川上流から約2kmの瀬戸用水と童子谷池の工事に着手した。この大工事の最大の難関は、7年に及ふ隣村大久保村との水争い訴訟であった。久善は、江戸での訴訟費用と滞在費用を、藁草履作りなと自力で乗り切り勝訴へと導いた。
 工事の完成によって、二百余町歩が潤った。
 村民は、この先人の偉業に感謝するため、久善翁没後43周年の享保5年(1720)に“礼おどり”を当社に奉納した。これが、お諏訪おどりの起源である。例年7月31日、花笠をつけた6人の若者が、大きな締太鼓を首からさげ廻り踊りをしながら勇壮な撥捌きを披露する。
 昭和62年3月  四日市市教育委員会

社頭掲示板



足見田神社

足見田は安之美多と訓べし、和名鈔、(郷名部)葦田、(假字上の如し)〇祭神詳ならず〇足見田郷水澤村に在す、今夜後大明神と称す、(考証)

神社覈録



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