足見川南岸山麓に鎮座する。森の中の神社。 成務天皇38年に、加富郷の産土神として采女の祖神天饒速日命を奉斎し、俗に「火宮明神」とも称した。 古くより采女七郷の総氏神(社)とする。 采女七郷と加富神社の位置関係においては、当社がいずれの村落からも離れた台地上に孤立して位置している。資料の多くが、采女七郷の総氏神(社)とすることより考えれば、本社が日宮大明神として、七ケ村が協同体を組織した頃に、その中心として改めて崇敬されたことを示していると思われる。 御巫清直は当社を足見田神社に比定する。 |
加富神社 一 創建及び由緒 延喜式内社成務天皇38年(168)に創建され采女七郷の総社とされ「日(火)宮明神」とも称す。采女七郷とは波木・貝家・采女・古市場・清水谷・南小松・北小松各村をいう。明治42年(1909)に神社合祀令により地区内の大祠・小祠を当神社に合祀。大正15年采女八幡社、昭和16年小松神社を分祀し現在に至る。 一 鎮座地 三重県四日市市波木町821番地 一 祭神 大日霊女貴神 おおひるめのむちのかみ(天照大御神)他11柱 社頭掲示板 |
延喜式内 加冨神社 第13代成務天皇の38年(168)創立と伝えられ、当時、日の宮(火の宮)と称したが、位置は定かでない。 第38代天智天皇(668年即位)の時代にこの地に移された。 もと采女七郷の総社で、三重郡六座の一つであり、加冨または火冨とも書くが、天保4年(1833)郷土史家安岡親毅が著した「勢陽五鈴遺響」には加止美とよむべきであると書かれている。 宝暦13年(1763)藤堂藩が編纂した「三国地誌」において、采女七郷とは采女、杖突、古市場、清水、小松、羽木、貝家と書かれている(采女七郷については異説もある)。 また、三重郡六座とは、醍醐天皇の命により延喜5年(905)から22年かけて編纂された延喜式(律令の施行細則)で定められた神社全国1861社(これを式内社という)の内、三重郡(当時)にあった江田神社(坂部)、加富神社(波木)、神前神社(高角)、小許曽神社(小古曽)、足見田神社(水沢)、椿岸神社(桜)の六社をいう。 加冨神社は采女城主後藤家とはゆかりが深く、城主が「安穏息災武運長久と諸人の快楽満足」を祈願して社頭の改修や造営を行ったとする棟札が残っている。昭和30年代ごろまでは境内で奉納相撲大会が行われ、参道には露店が並ぷほど盛大に賑わっていた。毎年10月14日には秋の例祭(大祭)が行われている。 社頭掲示板 |
加富神社 加富は可布と読り○祭神采女朝臣祖神○采女郷羽木村に在す(国史、俚諺)〇永万記云、賀福社、(八丈五疋)○古事記、(神武段)邇芸速日命、娶登美毘古之妹、登美夜毘売、生子宇摩志麻遅命、此者物部連、穗積臣、采臣祖也、」姓氏録、(右京神別上)采女朝臣、石上朝臣同祖、神饒速日命六世孫大水ロ宿禰之後也、 考証に、姓氏録采女朝臣の條を引て、饒速日命と云、俚諺是に從へど、速日命とは定めがたし、」伴信友云、大安寺天平資財帳、三重郡赤松原百町、云々、四至東上無清水、南甲社山道、北郡堺道、西山之限トアリ、甲社ハ加富神社ナルベシ、と云り、」又考証に、倭姫世記云、采女香刀比売、以校取美好女、称香刀比売、古事記云、為豊樂之時、伊勢國之三重采指挙大御盞、按加富訓加止美と云り、共に是非弁べがたし、連胤按るに、和名鈔、(郷名部)采女(宇禰倍)とみえ、古事記云々ともありて、其物部連の氏社は、飯高壹志両郡に、穂積臣の氏社は朝明郡にあり、さては采女臣の氏社も、当國に有べき、されば打つけに采女社とはなけれど、采女郷に在せば、必此氏社なる事いちじるし、 神社覈録 |