近鉄四日市駅南西に鎮座する。 明治42年4月16日に鵜森神社と改称した。 文明2年(1470年)に築城されたとされる浜田城があったところで,浜田城主の先祖といわれる俵藤太藤原秀郷(鎮守府将軍)や初代城主田原忠秀らを祀っている。 現在は,神社と鵜の森公園になっている。神社には,田原忠秀の寄進となる十六間四方白星兜鉢(国指定重要文化財)が保管されている。 |
鵜森神社のサイカチ 無指定 所在地 三重県四日市市鵜の森一丁目 鵜の森神社は近鉄四日市駅の南西方向へ歩いて5分ほどの所にある。隣接する鵜の森公園はかっての浜田城跡で木立に包まれた市街地とは思えない一画になっている。境内に入ると右手奥に包丁塚があり、見つけにくいがその後ろにお目当てのサイカチが立っています。三重県内で自生するサイカチは無いそうですが、こんな市街地の中心に樹高17m、目通り幹周り2.6m、勢いのある立派なサイカチを見ることが出来ました。 |
鵜森神社 無格社江田神社當社ハ別號ヲ鵜ノ森大明神ト称シ往古ヨリ延喜式内ノ一社ナリト傳ス當村ハ昔美作守忠秀ノ領地ニシテ厚ク当社ヲ崇敬シ鐵甲一領ヲ寄附セシ由ニテ于今傳來セリ 明治の神社明細帳 |
鵜森神社 鵜森神社と田原家 当社の鎮座地は浜田城の旧跡であり、文明年代(1400年代)より、浜田城主田原家が崇敬した社です。元は江田神社あるいは鵜森大明神と称されていました。 鵜森の語源は、昔付近一帯が松林の続く海岸で、海鵜が多く生息していた森ということに由来しています。 文明2年(1470)田原美作守忠秀が浜田城を築城してから川原家四代が居城しましたが、天正3年(1575)織田信長の武将瀧川一益との戦いに敗れ落城しました。落城した浜田城は、その後織田家臣が居城しましたが、天正12年(1584)羽柴秀吉に攻められ、完全に落城しました。社伝や口伝によると、慶長以後万治以前(1596−1658)の間に、城主川原家の旧家臣たちがこの城跡に鵜森大明神を創立し、藤標秀郷(田原藤太秀郷)及び初代浜田城主田原美作守忠秀以下四代の霊を祀ったと言われています。田原美作守忠秀は、それまで浜田城の西方芝田の地を南北に通っていた東海道を城の東側に移して交通の便を図りました(現在の旧東海道〕。また市場の整備も行うなど殖産振興にも努めたことで、16世紀半ばには市場が開かれるようになりました。 以来これが、「四日市」と称され、地名の起源ともなった四日市の繁栄の開拓者であります。 十六間四方白星兜鉢 平安時代中期(794〜1192年)、藤原秀郷〔藤原鎌足八世の孫)別名「俵藤太」が、大ムカデを退治した時に琵琶湖の龍神から贈られたものと伝えられている。藤原秀郷の末裔である浜田城主田原家の家宝。 藤原秀郷から田原家に引き継がれた家宝として守られていました。同家滅亡後は直系の堀木家が保管し、祠を建てて四代の霊と共に祀っていましたが、盗難に遭い、後に入手した鳥取の栗田家が田原家の宝物であったことを発見し、万治2年(1659)鵜森大明神に寄進したと言われています。 その後、寛保2年(1742)諏訪神社神主生川播磨守に預けられましたが、大正15年(1926)鵜森神社に返納されました。 その間、明治中期(28〜30年頃)生川神主宅が火災に遭い、保管箱、布などが焼失し兜鉢のみが残りました。 由緒書 |
十六間四方白星兜鉢 国指定重要文化財(工芸品) 十六間四方白星兜鉢 四日市市指定記念物(史跡) 浜田城跡 十六間四方白星兜鉢は田原藤太秀郷にゆかりあるものとして奉納されたと言われている。現在は鵜森神社の社宝として保存されているが、鉢は16枚の鉄板を矧ぎ合わせて半球状にかたどり、その四方には薄い鍍銀板を被せた形跡がみられる。 かつて保管箱には「松平相模守 栗田右衛門尉寄進 万治二年一月吉日」と銘あり、また、袱紗の端には「因幡国住人馬淵源三郎」という縫文字があったと言われている。 鎌倉時代の特色が強く表されている作品である。 浜田城は、室町時代の文明2年(1470)に田原孫太郎景信の三男田原美佐守忠秀が築いたものである。その後、藤綱、元綱らがこの地を領したが、安土桃山時代の天正3年(1575)に織田信長の家臣滝川一益に攻められ落城したという。 昭和56年3月31日 四日市市教育委員会 |
鵜森神社 ● 鵜森神社の沿革 天正3年(1575)6月6日、浜田城主田原遠江守元綱(たはらとおとうみのかみもとつな)は織田信長の武将“瀧川一益”との戦いに敗れ浜田城は落城した。落城した浜田城は、その後織田の家臣(瀧川一益、織田信雄の家臣瀧川雄利)が一時入城して修築したとされている。 落城寸前に息子“与右衛門重綱”は元綱の命で脱出して難を逃れ、その後、皮肉にも織田信雄に仕え、天正12年(1584)秀吉が信雄と対立した美濃加賀野井城の戦いで討ち死にし田原家は滅亡した。更に、秀吉は浜田城に立てこもった瀧川雄利を攻め浜田城は完全に落城した。その後、城主田原家の旧臣達(注-1)がこの城跡に、慶長以後万治以前(1596〜1658)の間に鵜森大明神を創立し、同家の遠祖である田原藤太秀郷及び初代浜田城主“田原美作守忠秀(たはらみまさかのかみただひで)”以下4代の霊を祀ったと言われている。 その後、天保8年(1837)別社として御霊社を創建し忠秀以下4代の霊を祀り直し、鵜森大明神に、天照大御神と建速須佐之男命を祀って明治に至った。 明治42年(1909)神社合祀令により、菅原神社、御霊社、鵜森大明神を合祀し従来の鵜森大明神を現在の「鵜森神社」に改称した。 *(注-1)忠秀の次男で堀木家の始祖となった弥兵衛秀常の孫、定直が中心となって城跡に祠(ほこら)を建てたのが始まりであろうと考えられている。 定直は、浜田家(注-2)直系の子孫で、慶長年間に浜田村庄屋を務めた村の最有力者であり、浜田家滅亡後も伝来の兜を保管していたとされる人物である。 *(注-2)浜田城築城後は、田原家から浜田家に改名した。 公式HP |