大木神社
おおきじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】大木神社 伊勢国 河曲郡鎮座

   【現社名】大木神社
   【住所】三重県鈴鹿市石薬師町2139
       北緯34度54分21秒,東経136度32分46秒
   【祭神】天照大神 (合祀)須佐之男命 天児屋根命
       (配祀)大国主命 瀬織津姫神 日本武尊 (合祀)大鷦鷯命
       『考証』神八井耳命
       『再考』「木霊」
       『背書國誌』『大日本風土記』大御食津姫

   【例祭】 10月11日 例大祭
   【社格】旧村社
   【由緒】由緒不詳
       寛永年中(1624〜44)に字船塚から今の地へ遷座
       明治3年天皇御東幸の時植松少將を差遺して代拝奉幣
       明治6年村社
       同39年神饌幣帛料供進指定神社

   【関係氏族】
   【鎮座地】当初は河曲郡高富村字船塚に鎭座
        寛永年中(1624〜44)に字船塚から今の地へ遷座

   【祭祀対象】本来は大木であろう
   【祭祀】江戸時代は「大日」と称していた
   【社殿】本殿神明造
       拝殿・祈祷所・絵馬殿・平和塔・社務所

   【境内社】稻荷社・賽神・山神

集落の中。平地に鎮座するきれいな社である。
国道1号線の西、石薬師小学校の北に鎮座する。
もと高富村船越にあった。寛永年中現地へ。
なお、式内社「大木神社」の論社は他に、市内南長太栄町の須伎神社に合祀されたもの、林崎町の久々志弥神社の飛地境内社(大塚神社)、北長太旭町の飯野神社に合祀されたものがある。


由緒

拝殿・祈祷所、絵馬殿、平和塔
境内社稻荷神社
勧請の年代、事情共に不詳である。「鈴鹿郡賦」に、「大木神社ハ青木ノ明神ノ宮ニシテ、今石薬師駅ノ天王社ノ同殿ニ巫ス」とあり、『三国地志』は、「アヲキト云、其下ニ小祠アリ、いまハ亡シ、俗大日霊ノ習合ニヤ」と記している。当社明細帳によれば、延喜式神名帳河曲郡二二座の一、もと河曲郡富村字船塚に鎮座のところ、元和年中(1615〜24)に、一村が今の石薬師へ宿立ち移住することになり、寛永年中(1624〜44)に当社も該地から今の地へ遷座したとある。明治元年御東幸に際しては、御調査の上、勅使植松少将殿が御参拝になり、玉串と幣帛料と奉納されている。同年、元度合県管轄鈴鹿郡第三区の郷社に被定されたが、同六年に村社列格となった。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




大木神社

明治天皇御差遣
延喜式内大木神社御由諸
由諸勧請の年代、事情共に不詳である。「鈴鹿郡賦」に、「大木神社ハ青木ノ明神ノ宮ニシテ、今石薬師駅ノ天王社ノ同殿二坐ス」とあり、『三国地志』は、「アヲキト云、其下二小祠アリ、今ハ亡シ、俗大日ト呼モノハ大日霊ノ習合ニヤ」と記している。
当社明細帳によれぱ、延喜式神名帳河曲郡22座の一、もと河曲郡高富村字船塚に鎮座のところ、元和年中(1615-24)に、一村が今の石薬師へ宿立ち移住することになり、寛永年中(1624〜44)に当社も該地から今の地へ遷座したとある。
明治元年御東幸に際しては、御調査の上、勅使植松少将殿が御参拝になり、玉串と幣串料と奉納されている。同年、元度会県管轄鈴鹿郡第三区の郷社に被定されたが、同六年に村社列格となった。
御祭神(おまつりしてある神さは)
天照大神・……・・皇室の御祖先。日本の総親神さま。
須佐之男命……天照大神の弟さま。疫病を防ぐ神さま。毎年7月14日の天王祭(天王さん)はこの神さまのお祭り。
天児屋根命……祭祀を司る神さま。
大国主命………福の神。大黒様。
火迦具土神・…・・火の神さま。秋葉さんともいう。
瀬織津姫神・・罪やけがれを祓い、清める神さま。
日本武尊………武勇にすぐれている神さま。
(景行天皇の皇子さま)
大さざき命………仁徳天皇。国民を大変愛された神さま。
保食神…………食料の神さま
(伊勢神宮の外宮と同じ)
玉幸稲荷神社…厄除商売繁昌の神さま
(京都の伏見稲荷と同じ)
大山砥神………山の神さま。
山ノ神社
蒲冠者範頼……源頼朝の弟さま。武道、学問の願望成就の神さま。
御曹子神社・・・…病気平癒を祈るに霊験あらたかである。自作の弓矢を御祈願料に添えて奉る。
延喜式内社とは
第六十代醍醐天皇の御代延喜時代今から凡そ1080年程前に作られた神社台帳に記載されている神社を云う。
■明治天皇勅使御参拝
明治天皇が都を京都から江戸(東京)へお移りになり東海道をお通りの際明治元年9月24日勅使植松少将殿をお差し向けられ幣畠科を御献上遊ばされた名高いお宮。
■史跡・天然記念物
■椎の森……鈴鹿市指定天然記念物
この杜には、サカキ、モチノキ、ヤブニッケイ、スギ、ヒノキをはじめ約百種の樹木や草木が混生し、うっそうとした杜を形成している。その主体となっているのがシイの木であって、目通り1〜1.5mに及ぷ太さの古木もある。それら無数の大木からなりたっている杜の景観は、優雅な曲線美を描いてこんもりと繁茂している。遠くから眺める姿は鎮守の杜にふさわしく、雄大、荘厳な風格は格別の趣きであり、石薬師の名勝でもあり象徴でもある。
わが郷土の歌人佐佐木信綱翁も産土の椎の森の歌を残している。
蒲桜…・三重県指定天然記念物
上野町の御曹子神社の南約50m程のところにある。
寿永のころ(1182〜85)蒲冠者で知られる源範頼が平家追討の軍をひきいて京都へ向う途中、石薬師如来に戦勝を祈願し、その際、鞭にしていた桜の枝を地面に挿し「戦に勝てば、きっと生えよ」といい残して出発したという。宇治川の合戦では見事勝利を治め、この鞭も芽をふいてきて枝を張り、春には美しい花を咲かせ蒲桜といわれるようになった。鞭を地面にさかさに挿したことから「逆桜」とも言われている。
桜の木の下には佐佐木信綱翁が、この桜を詠んだ歌
碑がある。
ますらをのその名とどむる蒲桜
   更にかほらむ八千年の春に
佐佐木信綱翁歌碑
郷土の生んだ大歌聖。第一回文化勲章受賞者
文学博士佐佐木信綱(源信綱)
月ごとの朔日の朝 父と共に
   まうでまつりし産土の森
名におえる森の大木のかげふみて
あふぎまつらふ神の恵を
◎ふるさと
なつかしきわがふるさとは鈴鹿嶺の
はるかに仰ぐ 石薬師の里

由緒書



石薬師の蒲桜

御曹司社(大木神社の末社)にあり、三重県指定天然記念物に指定されています。
寿永(西暦1182年〜84年)の頃,蒲冠者源範頼(頼朝の弟)が平家追討のため,西へ向かう途中,石薬師寺に詣でて武運を祈願し,戦運を占うため,鞭にしていた桜の枝を地面に逆さに挿して,『我が願い叶いなば,汝地に生きよ』と言って去ったが,活着し生長したのがこの蒲桜であるという言い伝えがあります。

鈴鹿市観光協会



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