鈴鹿川南の平地にある聚落の北の端に鎭座する。 現在は「奈加等神社」と合殿一社である。 創立は雄略天皇23年と伝え、大和国山部直広幡の女多加屋姫に猿田彦神、中筒男神が憑り、託宣があつて二祠を同地に造営し、中筒男神に奈加等神社、猿田彦神に都波岐神社と勅号を賜わつたという。 都波岐神社は鈴鹿郡鎮座椿大神社に比定する説もある。 |
由緒 本社は延喜式内の古社で伊勢国一之宮である。本社はまた、雄略天皇23年に伊勢国造高雄東命が勅を奉じて創建し、中跡直廣幡が宣旨より初代の祭主となった。白河天皇より正一位の勅額を賜わり、花園天皇の正和年中に摂政藤原冬平の執奏により神伝記を天覧に供し、後小松天皇の嘉慶年中に征夷大将軍足利義満が富士登山の帰途当社に参詣して幣帛を供え社領を寄進した。織田信長が神戸、高岡の二城を攻略の際、本社は兵火に罹り社殿が消失した。その後、一柳監物の援助で社殿を復興し、明治36年に県社に昇格した。猿田彦大神を主祭神として奉斎、御神徳を慕って、全国から参拝者が絶えない。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
都波岐奈加等神社 伊勢国一の宮 都波岐奈加等神社 つばきなかとじんじゃ 伊勢国一宮は、椿大神社と都波岐奈加等神社の二つがある。この社は、近鉄鈴鹿線鈴鹿市駅前から三重交通バス四日市駅行に乗って高岡で下車し徒歩10分。国道23号線の鈴鹿川の手前にある。都波岐神社と奈加等神社が相殿して祀られている。 雄略天皇23年(479)に伊勢国 造高雄束命が勅を奉じて、河曲郡中跡里(現一ノ宮町)に都波岐神社と奈加等神社の二社を造営したのが始まりである。都波岐神社には猿田彦大神を、奈加等神社には、天椹野命 、中筒之男命を祀る。 神社の古記によれば、神功皇后が三韓征伐をしたとき、猿田彦大神は中筒之男命とともに、日本水軍の守護に当たつた。新羅の雄将鉄輪は、幻術を使って日本水軍を惑わし苦しめた。この時、水軍を守護した二柱の神はこれと戦い、海に沈めたと、ある。雄略天皇は、二柱の偉大なる功績を称え、この地に祀るようにしたと伝える。 永禄年間(1558〜70)の織田信長の伊勢平定のとき、これに反抗した伊勢国の社寺は大きな被害をうけた。 神戸・高岡城の攻略でこの神社の社殿が焼けた。寛永年間(1624〜43)に神戸城主一柳監物が再建した。このとき難を免かれた獅子頭は、いま宝物として伝わる。鈴鹿市には獅子舞が古くから伝わり、4つの流派元がある。その1つがこの神社の中戸流舞神楽で、起源は古い。この獅子神楽は一時絶えていたが保存会ができて復活した。 兵火に免かれたところの由緒ある獅子頭を擁して、広く各地に出向し「中戸流舞神楽」として存在が知られている。その舞方は雌雄2頭の獅子の舞いで、四方拝・飛の尾・起し舞・扇の舞・花起し・花の舞の順が基本で10月10日の例大祭で奉納される。 http://www.ichinomiya.gr.jp/010.html |
都波岐神社・奈加等神社 伊勢国一ノ宮 都波岐奈加等神社 由緒 祭神 猿田彦大神 御祭神 本社は通称都波岐奈加等神社と呼習わしていますが、二社が相殿の神社で主な祭神は次の通りであります。 都波岐神社 猿田彦大神 奈加等神社 天椹野命 中筒之男命 尚、その他に境内社として小川神社・神明春日社があり、小川神社は天宇受売命外八神を、神明春日社は天照大神と天見屋根命が祭られています。 御由緒 当都波岐神社は延喜式内の古社で伊勢国一ノ宮であります。創立は第22代雄略天皇の23年で伊勢国造高雄束命が勅を奉じて同国河曲郡中跡村(後の中戸村)に二社を造営し都波岐神社及び奈加等神社と称したのが初まりであります。 中跡村の地名については、和名抄に「中跡 奈加等 郷名也、神戸ノ艮廿丁二中戸村有リテ有社」と記され、中世の古書には、「中跡庄」「長藤御厨」等の地名が記されており、地名に因んだ奈加等神社の草創の古さが知られます。 淳和天皇の天長年間に弘法大師が本社に参籠し、獅子頭二口を奉納しました。平安時代を通じて歴代天皇の崇敬が厚く度々神階を進められましたが、特に白河天皇は承暦3年当二社に対し正一位を授けられ宸筆の勅額を賜わりました。本社は、中世に入り更に大きな発展を示しました。花園天皇の正和年中に摂政冬平公の執奏により「神伝記」を天覧に供し、嘉慶年中には、征夷大将軍足利義満が富士登山の帰途本社に参拝し、幣畠を供え社領を寄進しましたので多くの武士が参詣したと伝えています。 また、本社の神宮寺が存在していたことも、当寺所蔵の鰐口が奈良市富屋中町の霊山寺に伝えられていることからも知られます。その銘に、「応永13年伊勢国河曲庄中跡神宮寺、大工藤政吉」と刻されています。尚、神宮寺はその後衰退し現在は尼寺となっています。 以上のように、本社が室町時代には既に当地方の大神てあったことが知られます。 永禄年中、織田信長は伊勢平定の軍を進め近くの神戸・高岡の二城を攻略しました。その際、本社も兵火に罹り社殿が焼かれました。その時、本社に伝わる白河帝の勅額以下文書.記録の類が多く焼亡しましたが、幸いにも獅子頭は他所へ遷し難を免れることができました。奇しき謂のある獅子頭は本社の大切な宝物として今日に伝えられています。因に、往時には、本杜の祈年祭に閨年に獅子頭を出して祭式を行い各地を舞い歩くことを例としていました。 社殿は、江戸時代に入り寛永年中に神戸城主一柳監物によつて再建されました。そして江戸時代を通じて本社の格式は高く熊本県阿蘇神社・茨城県鹿島神宮と同じ摂政の家柄である鷹司家の執奏社として大宮司職が置かれ、大きな勢力をもち、有力大社としての基礎が築かれました。 明治に入り、当地は河芸郡一ノ宮村大字中戸と称するようになりました。本社は江戸時代に引き統き社殿の整備がすすめられましたが、明治36年に県社に列せられ更に一層の発展がみられたのであります。 往古より、猿田彦大神の御神徳を慕い遠く北海道・東北・関東・東海・近幾.中国.四国など広く全国各地から崇敬を受け今日に及んでいます。 猿田彦大神の威徳と御霊験 猿田彦大神は古くから方位・道祖の大神として、また、衡の神として尊び敬われてきました。即ち、方向、方針、月的などを指示し給う霊験あらたかな大神でありますので、今日では家屋の新築・移住・転居・旅行.結婚・開店などの場合に人々の方災解除を祈願するのであります。県内は申す迄もなく広く県外からの方災解除の御祈祷の依頼に応じ本社の神札を初め、清めの砂「鎮め物の御幣」等を授与致しております。その他に、病気平癒・家内安全・商売繁昌・交通安全・学業及び合格祈願等、開運や諸願成就に霊験あらたかであることが知られています。昨今は全国各地から一ノ宮巡拝の人々が跡を絶つことなく本杜に参拝致されますが、本杜では、崇敬者の人々の「方除」「地祭」を初め「厄除」「家内安全」などの祈祷の申し出に応じております。 ○中戸流舞神楽の由来 鈴鹿市は獅子舞が古くから各地で隆盛をきわめ互いにその伝統を競い合つてきました。伊勢地方では昔「四山の獅子」と呼び、四つの流派元がすべて鈴鹿市内にありました。その一つが本杜の中戸流舞神楽でその起源は古く、特に本杜では信長の兵火を免れた謂のある獅子頭を擁し、広く各地に出向いて近郷近在に「中戸の獅子舞」としてその存在を知られてきました。 また四日市々高角町.鈴鹿市玉垣町・同白子寺家町などの各地に中戸流舞神楽が伝えられておりました。ところが残念なことに昭和二十九年を最後として行なわれなくなっていたところ中戸流舞神楽の伝統が絶えることを惜しんだ当神社の氏子達は、昭和五十六年に復活をくわだて保存会を結成して練習に励み同年秋の例大祭に盛大に舞神楽の奉納がおこなわれました。 その舞方は雌雄二頭の獅子による舞で、四方拝・飛の尾・起し舞・扇の舞.花起し・花の舞の順が基本となっています。 往時にならって毎年秋の例大祭には、由緒深い優雅な舞神楽が披露され大祭に一段と花を添えることとなり多くの参拝者で賑っております。尚、社頭での舞が終りますと氏子の家の門舞が続いておこなわれることになっており、夕闇の中で見事な舞神楽が演ぜられ見る人々を楽しませています。 一月一日 歳旦祭 二月中旬 祈年祭 三月初午日 初午祭 七月十四日 天王祭 十月十日 例大祭 十月十一日 小川・薬王子社祭 十一月中旬 七五三祭 十一月二十三日 新嘗祭 その他に、六月三十日、十二月三十日には恒例の大祓式が行われます。 由緒書 |
都波岐奈加等神社 (本社は通称、都波岐奈加等神社と呼習わしていますが、二社が相殿の神社で主な祭神は次の通りである。) 本殿 【都波岐神社】 猿田彦大神 【奈加等神社】 天椹野命・中筒之男命 由緒 都波岐奈加等神社は、延喜式内で小社ではあるが、伊勢国一の宮である。創立は、雄略天皇の23年3月で、猿田彦大神八世の孫、伊勢国造高雄柬命(たかおわけのみこと)が勅を奉じて伊勢国河曲県中跡里(現鈴鹿市一ノ宮町)に二社を造営し、その一社を「都波岐神社」、また他の一社を「奈加等神社」と称したのが始まりである。社殿は、一つで二社が相殿の神社である。 創立の際、天椹野命(あまのくぬのみこと)十五世の孫中跡直山部広幡が宣旨を受け初代の祭主を務め、その子孫が代々神主を継承し、当代で第五十八代である。 平安時代の初めの淳和天皇の天長年間には、弘法大師が本社に参篭し、獅子頭二口を奉納したと伝えている。平安時代を通じて歴代天皇の崇敬が厚く度々神階を進められたが、特に白河天皇は承暦3年当二社に対して正一位を授けられ宸筆の勅額を賜った。 本社は、中世に入り更に大きな発展を示した。花園天皇の正和年中に、摂政冬平公の執奏により「神伝記」を天覧に供し、嘉慶年中には、室町幕府の征夷大将軍足利義満が、富士登山の帰途本社に参拝し、幣帛を供え社領を寄進したので多くの武士が参詣したと伝えている。 また、本社の神宮寺が存在していたことも、当寺所蔵の鰐口が奈良市富屋中町の霊山寺に伝えられていることからも知られる。その銘に、「応永13年伊勢国河曲庄中跡神宮寺、大工藤政吉」ときざまれている。 永禄年中、織田信長は伊勢平定の軍を進め、近くの神戸・高岡の二城を攻略した。その際、本社は兵火にかかり社殿が焼かれた。その時、本社に伝わる白河帝の勅額以下の文書・記録の類が多く焼亡したが、幸いにも獅子頭は他所へ移し難を免れることができた。奇しき謂れのある獅子頭は、本社の大切な宝物として今日に伝えられている。 因みに、往事には、閏年の祈年祭に、獅子頭を出して祭式を行い各地を舞い歩くことを例としていた。 社殿は、江戸時代に入り、寛永年中に、神戸城主一柳監物によって再建された。そして、江戸時代末期には、熊本県阿蘇神社・茨城県鹿島神宮と同じ、摂政家である鷹司家の執奏社として大宮司職が置かれ、大きな勢力を有した。 平成9年3月24日早暁、明治9年の建立になる木造・瓦葺の拝殿・祝詞殿が不審火によって焼失したが、その後、氏子の計らいによって、新拝殿が翌年に再建された。 社頭掲示板 |
奈加等神社 加奈等は假字也、和名鈔、(郷名部)中跡、(奈加止)○祭神天椹野命、(考証、俚諺)O中戸村に在す、○旧事紀、(天神本紀)、天椹野命、中跡直等祖、 神社覈録 |
縣社 都波岐神社 奈加等神社 祭神 猿田彦大神(都波岐) 祭神 中筒之男命 天椹野命(奈加等) 両社の草創は大泊瀬幼武天皇(雄略)の23年春3月也と云ふ、神名帳考証に、郁波岐神社、「楠村社歟、猿田彦命、伊勢地主神也、奈加等神社、今高岡東有中戸社、天椹野命とあり、共に式の小社に列し、奄芸郡(明治29年奄芸河曲を合して河芸とす)十三座の中に列す、和名鈔に云く、「中跡(奈加止)、」旧事紀に云く「天椹野命、中跡直等祖、」神社覈録、奈加等は仮字也、祭神天椹野命、中戸村に在す、郁波岐は假字也、祭神猿田彦大神、中戸村奈加等神社相殿に在す今当社を主とす。当國一宮也」と云ひ、尚考証に、「楠村産社此乎、」と云へるは非也、抑一宮とも称する神の、中古より廃れて相殿に在すといふいといぶかし、されど一宮記に、河曲郡云々とあれば、しばらく是に從ふ、然て鈴鹿郡椿大神社をも一宮と云ひ、此社は神位有りて、今に歴然としたり、此等一宮記に疑ひある一つ也」と附記せり、神名帳考証再考に、奈加等神社、和名抄に中跡(奈加止)郷名也、神戸長二十丁に中戸村ありて、有社と云ふ、旧事紀曰、天椹野命、中跡直等祖、此中跡直は、此地より出たる氏姓にて、天椹野命を祀るなり、都波岐神杜、考証に云、今曰。楠村産社是歟、今属三重郡也と、其社地末考といへども、神鳳抄三重郡の下、椿御園(廿二町七郷)とあれば、建久の頃より、此神社の地三重郡に属せり、此御園は、鈴鹿郡の椿神田と同時に置れたれば、彼神田の神猿田彦をこゝに勧請し来りたる故、御園をも、椿といふなり、」と云へり、又神祇志料によれば、「奈加等神社、今中戸村にあり、蓋中跡直祖天椹野命を祀る、郁波岐神社、今北長太村八王子祠の相殿に合祭る、津萩大明神是也、按旧址は、八王子祠の北四十間許畑中なる小路塚にあり、小路或は老翁大木に作るは誤れり」と見え、大日本地名辞書に云く、「一宮、中戸の椿岳の驚に在り、即奈加等神也、式内都渡岐神を合祀す、一宮と云ふは一郡の最たる意ならん、」又云く、今一宮村大字中戸あり、長太の西に接す、延喜式奈加等神社あり」といへり尚社伝によれば、古来二社同殿に斎き奉り、殊に都波岐神社は一宮の故を以て、古來朝家の崇敬淺からす、特に大宮司の官を置かれ、永く摂政鷹司公爵家の執奏を受けつゝありし社頭なりしが、明治6年村社に列せられ、同36年3月27日縣社に昇格す。 社殿は本殿、拝殿の二宇にして、境内坪数800坪(官有地第一種)あり、古松老杉蒼鬱として社を囲み、実に幽邃の神境たり。 明治神社誌料 |