御巫清直は三重郡北五味塚村字市場(楠町)の「楠郷惣社神明社」を式内社と考えている。 しかし、五味塚が河曲郡かどうかについての確証がない。 社伝によれば、最初神明社を奉斎していたが、後、正平24年(1369)末社上下諏訪社を、伊勢国司の被官諏訪十郎が勧請したと伝えている。 江戸時代には、諏訪大明神神明社とも楠郷総社とも呼ばれていた。明治になり、楠村郷総社神明社などとも称した。明治39年(1906年)、村社に列し、神饌幣帛料供進社に指定された。 |
楠郷惣社神明社由来 楠山城が正平24年に楠町本郷に新しく築城された折、初代城主として伊勢国司北畠氏の被官で信州諏訪出身の諏訪十郎貞信が就きました。 境内社中の上諏訪社は、初代城主の諏訪十郎が祖国の武神である諏訪神を勧請(かんじょう)したと言われ、四日市諏訪神社はこの諏訪神の分神だとも言われています。 詳しい記録は残っていませんが、四反(約4,000u)の境内地と六反(約6,000u)の風致林を有していたと言われており、相当広大な土地であった事がうかがえます。 しかし、鈴鹿川の氾濫の際に自然にできた鈴鹿川派川により南の境内が川底に沈んでしまい、大正六年には伊勢鉄道開通の際に南西の一端が分断され、今の敷地形状となりました。 明治40年代に全国で実施された神社整理で、三重県は全国にも類のない強行方針で実施され、この楠町も例外ではなく明治41年から43年までのわずかな期間に楠郷総社神明社に合祀され、社名も楠村神社と改められました。 しかし、氏子の不満が抑えられず、大正15年に南五味塚、昭和2年に本郷、昭和28年に南川でお宮復興がなされました。 終戦後に南五味塚の神社は南御見束神社として、本郷の神社は楠村神社として、南川の神社は爪生神明神社として独立を認められ、現在の楠郷総社神明社の形になりました。 北楠祭り文化保存会 |