金沢川、田古知川の間の平地の集落の神社である。 天平13年(741)山田原の土宮の御霊を海部村に勧請し、後現地へ奉祭。宝亀元年(770)に井上親王の霊夢により御厨より糀を豊受宮に奉献。このとき祭神大土御祖神に土之御祖神、埴安比売命を合祀した。この地は玉垣御厨。延喜5年(905)に社名を土宮から現名へ。 慶長19年〜安永9年の間(166年間)に10回の修繕、御造営の事実を伝える棟札がある。 醍醐天皇の延喜5年の頃、社名を彌都加伎神社と改めたが、以前は土宮、或は土御前と呼ばれ、陶器、左官、粘土、土木工事、各業の外農民はもとより土に携わる職業の人達、又豊受宮に糀の奉献により酒、みそ等の職業の人達の多くの崇敬をあつめている。 |
由緒 遠い昔からこの土地で土に携わって生活をして居た人達や、土地の有力者の人等が相談をし、土を司どる神、大土御祖神を今から1241年程前、山田原の御霊を海部村に勧請し、後に村の中の清浄で村人などの集まりやすい中心場所である現地に移し、瑞籬村と称してお祀りし、それが現在の彌都加伎神社の起源となり、光仁天皇の御代宝亀元年に井上新王の霊夢により御厨より、御供糀を豊受宮に奉献することとなり、祭神の大土御祖神に土之御祖神、埴安比売神を合わせて奉斎する事になったと言われ、和名抄郷名の資母郷が玉垣村に当たるといわれ古い郷である。玉垣御厨に関する記録として、延文5年の「神鳳鈔」には「玉垣御厨内宮82町3段余九石6.9.12月」とあり、地域の広大さがうかがえる。 「宗祇名書方角」には「古は御厨の十人衆と云うものありしか、今は亡ふ」と記され、こうした神領地の運営も推察される。慶長19年〜安永9年の間(166年間)に10回の修繕、御造営の事実を伝える棟札ある。明治2年3月明治天皇御東幸の途次亀井茲監を勅使として奉幣代拝の処遇を受けた。明治39年神饌幣帛料供進指定神社になる。明治41年村内無格社を合祀、昭和4年、先に合祀した須賀、宇気比、胸形、熊野、八幡、深田、吉田の七神社に合祀前の祭神を祀り、氏子区域は旧玉垣村(現東玉垣、西玉垣、南玉垣、北玉垣、四町と桜島町、末広町)全体である。醍醐天皇の延喜5年の頃、社名を彌都加伎神社と改めたが、以前は土宮、或は土御前と呼ばれ、陶器、左官、粘土、土木工事、各業の外農民はもとより土に携わる職業の人達、又豊受宮に糀の奉献により酒、みそ等の職業の人達の多くの崇敬をあつめ、当時の御神徳の深さをうかがい知る事ができる。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
弥都加伎神社 鎮座地 三重県鈴鹿市東玉垣町1412番地 御祭神 主神 大土御祖神 相殿 土之御祖神、埴安比売神、宇賀御魂神、事比羅神 遠い昔からこの土地で土に携わって生活して居た人達や、土地の有力者の人等が相談をし、土を司る神、大土御祖神を今から1241年程前、山田原の御霊を海部村に勧請し、後に村の中の清浄で村人等の集まりやすい中心場所である現地に移し、瑞籬村と称してお祀りし、それが現在の彌都加伎神社の起源となり、光仁天皇の御代宝亀元年に井上新王の霊夢により御厨より、御供糀を豊受宮に奉献することとなり、祭神の大土御祖神に土之御祖神、埴安比売神を合せて奉斎する事になったと言われ伝えられている。 現在の玉垣町は和名抄郷名の資母郷が玉垣村に当るといわれ古い郷である。 慶長19年〜安永9年の間(166年間)に10回の修繕、御造営の事実を伝える棟札がある。 明治2年3月明治天皇御東幸の途次亀井茲監を勅使として奉弊代拝の処遇を受けた。 明治39年神饌弊帛料供進指定神社となる。 明治41年村内無格社を合祀、昭和4年、先に合祀した須賀、宇気比、胸形、熊野、八幡、深田、吉田の七神社に合祀前の祭神を祀り、氏子区域は旧玉垣村(現東玉垣、西玉垣、南玉垣、北玉垣、四町と桜島町、末広町)全体である。 醍醐天皇の延喜5年の頃、社名を彌都加伎神社と改めたが、以前は土宮、或は、土御前(はじのみやしろ)と呼ばれ、陶器、佐官、粘土、土木工事、各業の外農民はもとより土に携わる職業の人等、又豊受宮の糀の奉献により酒、みそ等の職業の人達の多くの崇敬をあつめ、当時の御神徳の深さをうかがい知る事ができる。 公式HP |
彌都加伎神社 彌都加伎は仮字也〇祭神詳ならず○玉垣村に在す、(考証、俚諺)今七御前と称す、 勢陽俚諺に、玉垣の玉ノ字を、古は瑞ノ字かきけるか、何もたまとよめる字なれば、玉垣と後世ツクリを略して篇ばかり書けるならし、と云り、 神社覈録 |