清和小学校の東北に鎮座する。背後を近鉄鈴鹿線が通っている。 飯野神社と高市神社の合殿の形をとつている。 弘治元年神戸友盛が造営、そのとき南八町の高市森から高市神社を遷して合祀という。天正年間兵火で焼失。 |
由緒 当社の創祀については詳にし難いが、社伝によれば嘗て境内には「神宮并ニ七堂」があり、神戸城主神戸蔵人友盛が弘治元年(1555)に社殿を造営し、その際、社地より南(約八町)に鎮座の「高市森」から高市神社を遷して合殿としたといふ。 天正頃織田信長伊勢侵入の兵火にかかり焼亡したと伝え、又江戸時代に入り寛永14年(1637)城主本多下総守より「祢宣屋敷地井ニ寺四ケ院屋敷地」を拝領している。年代不明の古札に「飯野神宮牟山大明神」と記され、『亀城兎園記』には「六山大明神」とあることから、普通牟(六)山大明神と呼ばれていたようである。 明治39年の明細帳には飯野高市両神社と社名を記し、大正13年(1924)には社名を変更して飯野神社と単称するに至った。 明治41年には村社2社、無格社5社、同42年に村社1社、無格社1社の合祀を行った。昭和28年に、愛宕神社と忍山神社を分祀して現在に至っている。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
飯野神社 当社の創始については、古くは延喜式神名帳(927年/延喜5年)にその名が見られるのが歴史上の初見になる。 それ以来、近隣の人々から崇敬を受け社殿等の造営がなされたと考えられているが、詳しい史料等は残っておらず、当時の詳細は不明。 その後、弘治元年(1555年)に神戸城主・神戸蔵友盛から格別の崇敬を受け、社殿等の御造営がなされ、その際に社地より南に鎮座していた高市神社を遷して、合殿(あいどの)としたという記録が残っている。 また天正の頃(1573〜1592年)には、織田信長の戦火にかかり焼失するもその後、再建される。 現在の社殿は、平成5年に氏子をあげての篤志奉賽によって造営され、平成15年には授与所・大広間の施設も新しく造営され、今日に至る。 また社殿改築の際には、御本殿下より須恵器・土師器などが出土された。 公式HP |