鈴鹿川の北岸近く、集落の南はずれに鎮座する。すぐ南に関西本線の線路が走る。 野村町の東北隅に愛宕山と呼ばれる海抜90mの丘陵があり、この南麓地点が旧社地と推定されている。 この旧地に神宮寺として神福寺と共にあったが、文明4年(1472)に、兵火のたことごとく灰燼となった。いま野村にある慈恩寺は神福寺の遺蹟とされている。 その後仮殿に祀られた。永禄の戦乱には、一時兵火を避けて白木山に御神体を奉遷したといわれ、中世におけるその荒廃は著しかつた。 この地は伊勢大神の御遷幸の地であるとされ、倭姫命が天照大神を奉じ、桑名野代宮から鈴鹿に來られた際、この忍山にて神宮を奉斎した忍山神宮の旧跡という。 日本武尊の妃弟橘媛(おとたちばなひめ)は忍山神社祀官忍山宿弥(オシヤマノスクネ)の娘と伝えられている。 崇神天皇7年(紀元前91年)の御代に勅命をもって、伊香我色雄命に猿田彦を鎮座せしめられた。伊香我色雄命の子、大水口宿禰の子孫(80代)相継いで神主となり明治に至る。 布気皇館太神社を論社とする説もある。 式内社調査報告も「式内布気神社は現忍山神社である公算が強いように思う」としている。 |
鈴鹿小山の宮(忍山宮)倭姫命御巡幸地 鈴鹿小山の宮(忍山宮)倭姫命御巡幸地 垂仁天皇(第11代天皇)御代に皇女倭姫が御杖代となって、天照皇大神の鎮座の地をもとめて、大和の国から忍山に御遷幸になった。その際神宮を造営し御鎮座になること10年、なおも南へ遷り坐したという。その跡をかしこんで大神を奉祀した。 社頭掲示板 |
忍山神社 忍山は於之夜萬と馴べし○祭神詳ならず〇野田村の内忍山村に在す、(考証、俚諺)○倭姫世記云、垂仁天皇14年乙巳、還幸于伊勢岡桑名野代宮、四年奉齋、次川俣縣造祖大比古命参相支、汝國名何問賜、白久、奈基波志忍山卜白支、然神宮造奉令幸行云々、 神宮啓蒙に、倭姫世記の故事を挙て、大比古命鈴鹿社に在すと云るは、其拠をしらず、 神社覈録 |