集落から離れた茶畑の中に鎮座する。叢林大きく良く目立つ。 『宝暦神社記』は祭神を「祭所住吉大明神」としており、住吉神としての信仰が篤い神社で江戸時代と通じ近郷の人々の氏神として崇敬されていた。 現在の長瀬神社はもとの武備神社の跡地にあたる長澤の部落の北東700mにあるが、もとは同部落の、北、字北美加登中之宮にあつた。移転の結果、現在、旧社地は田畠になつている。その位置には石標が立ち、表には「延喜式内長瀬神社旧跡」、その裏には「願濟明治44年11月26日字北能褒野武備神社地へ移転」と刻銘があつて、移転の事実を明記している。 |
由緒 伝聞旧記は天正の兵乱にかかり散逸したという。その後、いつ誰によって書かれたとか分からないが、古老のかきとめたものなどを参考にして大凡を誌した考証録があった。 明治9年神社取調があって、時の神主田上重通がその考証録を書き改めて提出したものが現在残っている。すなわち、長瀬神社縁起録である。それによると、主神は倭建命で住吉三神を併せ祀り、相殿神六座を迎えて、長瀬神社住吉大神と称したという。また、その創始は、景行天皇の皇子日本武尊の霊を長瀬郷長沢村に祀って長瀬神社と称したにあるとし、諸書を引用して、式内社であること、社名の由来について語っている。 先ず、延喜式巻九に「伊勢国鈴鹿郡並尓長瀬神社」とあるのが、当社であることを明記している。さらに、享保14年にお改めのとき、式内社と確認されたとし、明治8年12月3日には教務省達で式内社と確定されたことを記録している。 次に「長瀬」の読み方は「奈加世」というのだと倭名鈔を引用している。そして、その社名の由来を語って、「長瀬」は「能知瀬」の訛ったもので、「のち」は「命が終る」の意味だと、日本武尊の最期を偲ばせる土地柄を示している(参考熱田大神縁起)。一説に長瀬は中瀬の誤りだとし、住吉大神に縁があることを物語っている。(伊勢賦)また、神社の位置を示すものとして、石大神(小岐須)より東一里、天一鍬田神社(庄内)より一里とあって、「中の宮」というのだと説明している(式内案内記)。 以上がその内容である。明治4年7月村社に列せられ、明治39九年神饌幣帛科供進社に指定された。このごろより明治末年にかけて、国の方針に従い、長沢地内の諸社を合祀して、明治44年2月23日字北帝より現在の地字北能褒野(合祀した武備神社の跡地)に移転今日に至っている。昭和21年国の管理を離れ、宗教法人「長瀬神社」として発足したが、氏子の崇敬厚く、御神徳比愈々明らかである。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
日本武尊御陵道 日本武尊御陵道の道標について 当社の本殿奥にある塚は「武備塚」といいます。江戸時代尊王論の風潮とともに、日本武尊の稜の探索が始められた時、この塚を亀山藩(藩主・板倉勝澄)が、尊の稜と定めました。 この道標は、明治元年に現在の亀山市本町(三本松)の鳥居の横に建立されたものです。その後、道路の拡張と、明治十二年内務省の再調査により川崎町田村の王塚が尊の稜に指定されたこともあって、ここに移されました。しかし今なお尊の稜については諸説があります。 長瀬神社宮司 社頭掲示板 |
長瀬神社 長瀬は奈加世ど訓べし、和名鈔、(郷名部)長世、(假字上の如し)○祭神啼澤女命、(考証)〇長瀬郷長澤村に、在す、(考証、俚諺) 熱田社寛平2年縁起に、自後倭建命体中不豫、欲帰尾張便移伊勢、既而過鈴鹿山病痛危迫、渡鈴鹿河中瀬忽随逝水、時年三十、仍號其瀬曰能知瀬、(能知者命終之詞也)今改爲長瀬訛也、とあれどこは当社の故事にはあらじ、名の同しきをもて混ずベからず、名島政方云、或人云、英太郷長澤村武備神社是也、所祭稚武彦命、又云吉備武彦命の墓、云々、武備社記云、能褒野武備神社、坐日本武尊一座云々、抑長瀬の社號郷名は、熱田大神線起曰云々、と見えたる是也、或人英太郷長澤村といへるは、長瀬郷と地の接するをもての事にや、云々と云へり、連胤按るに、長瀬の名は一ツなれど、事は異なるべし、尤長瀬社と武備社とは別社なるをや、 神社覈録 |