鈴鹿川北岸の河岸段丘の上に鎮座する。 『皇太神宮儀式帳』に「河曲鈴鹿小山宮」、『倭姫命世記』に「奈其波志忍山宮」とある、天照大神を奉斎した倭姫命が滞在した元伊勢の伝承地の一つ。 古く野村布気林(野村の西北部・野尻村との境)にあつたが、文明年間の兵乱によつて衰退し、のち、現社地の皇館の森に移つたと伝えている。 中世には、神戸郷の神領を管した在地の豪族板淵氏(同村の西北に居住)が当社の祭祀を経営していた。 文永元年(1264)に関実忠が地頭職として亀山に移住し、亀山城の氏神とした。 享保8年(1723)に吉田家より皇館大神宮の神号を受けた。 |
布気皇館太神社 延喜式巻九「伊勢国鈴鹿郡19座並小布氣神社」とあり、垂仁天皇18年の創始にかかる式内社です。 社名の皇舘とは、垂仁天皇の御宇、天照大御神が忍山に御遷幸の折、大比古命が神田・神戸を献じたことに由来し、野尻、落針、太岡寺、山下、木下、小野、鷲山の七ヶ村を神戸郷といいました。 九々五集巻第六上には、「高野大神宮 関氏より続テ亀山御城主御氏神三社之内 神辺七郷惣社ノ宮(略)宮地長長八十間横百間」とあり、また同書の巻第九の巻末に記述の「舘殿御由来」には「抑勢州鈴鹿郡神戸庄皇舘多賀ノ宮は豊受皇太神宮の荒魂の御神なり。夫レ神戸と申侍るは人王十代崇神天皇七かのへ寅歳奉勅命て諸国所々に御舘を改め其郡の宗廟として荒魂の卸神を社の神戸なり」とあります。 布気皇舘太神社は、時代によっていろいろな名で村人に親しまれたが、明治41年近郷の小社・小詞を合祀し、現在の社名となりました。 社頭掲示板 |
布気皇館太神社 由 緒 延喜式神名帳には、垂仁天皇一八年鈴鹿郡布気神社と見えている。 昔、旧野村字に布気林という所かあり、そこに奉斎してあったことから布気神社と称えたのであるが、 文明(一四六九‐八六)の頃に起った兵乱のため、社殿悉く焼失したため、後に皇舘の森へ奉遷したと伝えられている。 皇舘の森の皇舘とは、垂仁天皇の御宇、天照大御神が忍山に御遷幸の折、大比占命が神田・神戸を献じ給うたことに由来する地名であり、 野尻、落針、大岡寺、山下、木下、小野、鷲山の七ケ村を神戸郷と言い皇舘太神社を総社と仰ぎ、平素の尊崇は論を俟たず、 大祭の奉仕に専念、殊に早魃の時には郷民こぞって参籠して祈ったということである。いろいろな名で親しまれたが、 亨保八年(一七二三)に、吉田家から皇舘大神の神号を受け、布気神社皇舘大神となったが、明治四一年六月より現在の社名となった。 明治四一年、近郷近在の小社・小祠を合祀して今回の神社になった。倭姫が立ち寄ったとも言われている。宝物等 獅子頭 一口 公式HP |
布氣神社 布氣は假字也○、祭神詳ならず〇野尻村に在す、今神館と称す、(国史俚諺) 考証に、今在湯津羽村、云羽黒山此乎、と云て其考あれど、布氣の號に係らず、湯津羽に係る社なれば執し難し、 神社覈録 |