中の川の北岸近く。田の中に島状に鎮座する。 この地は古代の鈴鹿三宅の地という。 屯倉は大化前代に置かれた皇室領である。そこには、中央から派遣された官人が駐在して、屯田から収穫された稲穀を倉庫に収納し、適当な時期に、これら稲穀をまとめて都に運搬したものと考えられる。三宅神社とはこの屯倉に置かれたもので、なかでも中央から派遣された官人により直接経営がなされた直轄領に置かれたものと推定されている。 もとは長法寺村の東北にあたる字古里の地に鎮座し、天文4年に今の長法寺村の桑田の民家前に越すと伝えている。その後現地へ遷。 古来、長法寺村にある三宅山正楽寺住職が初代円海から十九代浄金まで社僧として奉祀した。 明治までは「加和良神社」と呼ばれたという。加和良神社(伊勢国 安芸郡)に比定する説がある。 出口延経の『神名帳考証』は当社を大鹿三宅神社に比定している。 |
由緒 創立年月不詳なれども、本社は延喜式神明帖伊勢国鈴鹿郡十九座の一なり。尤其の先本州の国司宮所在の地にて屯倉を置かる、因って三宅の号あり又官幣を当社に納め給ひ故總社と通称す。尚、旧幕中亀山城主歴代の為田1反を寄付せらる。明治41年3月同44年5月の2回に渉り国府村各地に鎮座の神々を当神社に合祀執行せり。明治6年3月村社に列し明治39年12月三重県告示第380号を以て神饌幣帛料供進社に指定せらる。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |