もと亀山市川崎町紫崎の北西字宮屋敷に鎮座し、中世には峯氏(関氏)の峯城鎮護の神として崇敬されたが、天正11年、滝川一益の峯城攻撃により、社は兵火にかかり灰燼、廃社同然になるに至つた。 寛文6年8月、村民と伊藤重冬等の努力により城山の高地に遷して再興したという(紫崎の西の山腹字城の谷)。明治末年の神社整理により、現在は能褒野神社に合祀されている。 |
能褒野神社御由緒 日本武尊能褒野で薨去される。景行天皇深くこれを嘆かれ、太子の礼を以て葬られた 。 中世以降戦乱が相ついで尊の御陵墓も荒廃して定かでなくなり、加佐登塚、吉備塚等 諸説が続出したが、明治12年、前方後円の古制により16のばい塚をもつ女ケ坂を 以て尊の御陵であると確認され、守部を常置して祭られることになった。 明治16年、神宮祭主久邇宮朝彦親王より、能褒野神社と社号の選定ありて、翌17年3月10日、御陵の傍に創立の許可あり、社殿境内の新設に着手した。明治28年 、その業ようやく終り、時の神宮祭主、賀陽宮邦憲王殿下より御霊代を納めまつらん との御沙汰を蒙り、伊藤宮司及び惣代2名が殿下に親謁し、御手づから御神体を頂いて帰り、御鎮座祭を行った。 明治38年、日露の役終わり、陛下神宮へ御親拝の日、勅使を御墓へ差遣され、同勅使は神社へも参拝、玉串を奉納された。また、能褒野神社創立に関する詳細を陛下に復奏するとの御言葉が、神職伊藤忠孝にあった。 明治41年、弟橘姫命(元小天宮祭神)建見児王(県主神社祭神)を配祀し、式内社那久志里神社、同志婆加支神社、村社八島神社、田守神社外、四十余社を合祀して村社となった。 大正13年、能褒野保勝会組織、同14年6月県社に昇格し、10月祝祭を行った。こ の時秩父宮、高松宮、伏見宮、閑院宮、朝香宮、東久邇宮、北白河宮、竹田宮等、各宮家より「御鏡餅料」を給い、知事以下200余名の参列を得て、厳粛な祭儀が行われ た。 大正15年5月、保勝会にて亀山駅前に大鳥居を建設。久邇宮邦彦王殿下より「能褒野神社」の御染筆を頂き、扁額を掲げた。 昭和21年マッカーサー指令により国家神道廃止され、宗教法人となり昭和27年12月1日、宗教法人能褒野神社として今日に及んでいる。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
能褒野神社 所在地:亀山市田村町1409番地 最寄駅:JR井田川駅 能褒野(のぼの)神社は、日本武尊の墓といわれている能褒野陵の東隣にあります。鬱蒼とした森の中の神社です。 主祭神はもちろん、日本武尊です。明治17(1884)年3月1日、当時、鈴鹿郡川崎村名越のこの地に、能褒野神社は創設されました。久邇宮朝彦親王(1824-1891)の命名によって神社の名前が付けられました。そして、有栖川宮、山階宮、小松宮、伏見宮、北白川宮、閑院宮、梨本宮、華頂宮から金弊を寄付され、明治28(1895)年には賀陽宮邦憲王より御霊代の寄付と金弊の奉典を受けました。また、明治38(1905)年には明治天皇が伊勢神宮へ行幸の途中に能褒野神社にも立ち寄りました。このように皇族とのかかわりが深い神社です。 その後、明治41(1908)年に能褒野神社は川崎村内の神社を合祀しました。 社頭掲示板 |
能褒野御墓 一名丁字塚といい景行天皇第二皇子小准命(日本武尊)のお墓である。このお墓については古来種々の説があったが明治12年11月10日内務省はこの地を以って日本武尊のお墓と定め周囲に土柵、鳥居、石階などを設け守部を置きお墓のおもりをしている。 この古墳は日本武尊の英雄伝説にまつわる能褒野に存在する幾多の古墳群中最大のもので主墳を中心に大小16の陪塚がありいわゆる能褒野古墳群の中核をなしていて御陵に値するお墓である。 総面積19437平方m、内本地16559平方m、内部の周り342m、南北116m、東西84m、封土の長さ90m、前方部径40m、高さ6.1m、後円部56m、高さ9.1mに及ぶ空堀を回らした広大な前方後円の古制を厳存するものである。 昭和55年10月建之 亀山市教育委員会 社頭掲示板 |