この地は鈴鹿川の本流と支流第一の安楽川の合流する地点であり、また古墳・遺跡の分布が最も濃密な地域で、国府台及び左岸の丘陵周辺に西ノ野古墳群、一色町の保子里古墳群、右岸の丘陵周辺に井尻古墳群、井田川の茶臼山古墳群、同寺院阯等がある。後には国衙が置かれる等、早い時期に開発された地であつたことが知られ、その環境は式内社鎮座地としてふさわしいとされている。 川の北岸堤防の下に鎮座している。 もと八王子社と称し、明治41年(1608)6月和泉村の川俣神社に合祀された。その後昭和23年(1948)11月、氏子の総意にもとづき分祀再興された。 |
由緒 当神社は延喜式神明帖に載る所鈴鹿郡十九座の内なり。此の川俣神社鎮座の和泉村は国府村に隣りて地所入曾し、亦平田村も隔たざれば和名抄に載する牧田郷なること必せり。 扨て此の神社を俗に子安八王寺と奉称、祭神八王寺を大穴牟遅命と伝えたるは大日貴命の転訛にあらむか。何れにもあれ大穴牟遅命の神徳を祈れば安産あるは然あるべし。又、此社鑰取別當は当村舟井山泉福寺住職なり、累世別当奉仕して宝器等は寺に預り置奉れども中古此の社殿へ盗賊忍入り古書等奪取られし事もあり、其の真書何れへ散乱致しあるも又はかられず。 天保3年泉福寺の住持当社の記録持行き没後紛失に付負相知。併是迄亀山旧御領分書上には牛頭天皇川俣神社は八王子と認有之候。 明治41年4月2日井田川村各地に鎮座の神々を当社へ合祀するの許可を受け同年5月24日合祀執行せり。明治39年12月三重県告示第380号を以て神饌幣帛料供進社に指定せらる。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |