安楽川の川沿にあつて、昔は庄野から亀山に通じる東海道の道筋に面して賑わつたところである。和泉橋の北、堤防の直下に鎮座する。 中世の記録に「川俣神」として散見しているが、資料価値に疑問があるとされている。 当社は数多い川俣社のなかでも、亀山藩において式社に比定されている。 『亀城兎園記』の西富田条に「社八玉子・八幡・天神 貮拾五間四間 村之西」とあり、古くは八王子と称されていた。中世近世を通じ宝殿その他社殿の造営が行われているようにみられる。特に正和2年(1313)、貞治6年(1367)、至徳3年(1368)の練札がある。 明治4年(1871)8月郷社に列格し祠官が置かれた。同41年(1908)6月中富田町の川俣神社と共に和泉の川俣神社に合祀された。その後昭和23年(1948)氏子の総意により分祀された。 |