倭文神社
しとりじんじゃ
加佐登神社 に合祀
所在地 社名















   【延喜式神名帳】倭文神社 伊勢国 鈴鹿郡鎮座

   【現社名】加佐登神社に合祀
   【住所】三重県鈴鹿市加佐登町 2010
       北緯34度54分0秒,東経136度31分37秒
   【祭神】天羽槌雄命
   【例祭】
   【社格】旧村社
   【由緒】由緒不詳

   【関係氏族】倭文氏族
   【鎮座地】加佐登神社の石段登口の右側に熊野社があつて、その境内に鎮座

   【祭祀対象】氏祖
   【祭祀】江戸時代は「高宮明神」と称していた
   【公式HP】 加佐登神社
   【社殿】
       

   【境内社】

明治末年に神社整理になるまで加佐登神社の石段登口、石段に向かって右側に熊野社があつて、その境内に鎭座していた。
石段の脇に熊野神社跡の石碑がある。
出口延経の『神名帳考証』は井尻村にありとしており、御巫清直は東菰野村倭文神社(現在社不詳)に比定しているが、式内社調査報告は両説とも否定している。
白鳥塚古墳の横に鎮座し、尊が死の間際まで持っていたといわれる笠と杖をご神体として祀る。


加佐登神社由緒

伊勢国鈴鹿郡荘野駅より十町ばかり北なる高宮村という所に、御笠殿とて、日本武尊の御社あり、こは尊の御笠を蔵めし所と語りつぎ、また其よりやや離れて、白鳥塚とて同じ尊の御陵あり、この辺おし並て、いにしへ能煩野といひし所にて、かの王の崩御ませる地なる故に御陵あるなり。延喜の諸陵式に能褒野墓日本武尊在伊勢国鈴鹿郡とあるはこれなり。なを其あたりに奉冠塚奉装塚など云ふもあるは皆かの王の御遺物を納めし所といふは信に然るべし。抑かの王の御よはひいと若くまして倭童男王と申ししほどに、筑紫国なる熊襲たけると云ひし荒えびす討とり玉ひて、倭健男命と御名におひ巫せる御いさをしは更にも申さず、其後に吾妻の国々なる悪き神また射向ひまつる夷どもをみな征伐け給ひて、大倭のみやこに帰り坐せるに近江国の伊吹山なる荒ふる悪神をも取給はむと、其山に登り給ふ、ここに某神あしき気吹を起せるに、尊その悪気にあたり坐て、御足こひ腫たりしより悩み給ひて、遂にここにて崩御まししかば、即この所に御陵をつくりて、葬め奉れるに、白鳥となりて飛出給へれば、その御陵をひらき見るに、ただ御衣のみ在れる故にこを白鳥の陵とまうすこと、古事記日本書紀、熱田古縁起などに見えて、我師本居爺の故事伝は更なり、余が古史伝にもくはしく考へ記せるが如し。斯くこの御笠を蔵めし丘はも、いと古く御社たてて、彼の王の御霊を祝ひまつりて、御笠殿とも、御笠社とも申し来り、其里にます熊野神司の神主鈴本氏なむ、往昔より持いつき奉り来ぬるを、御陵威いち速くおはし坐すは、この御笠はも小縁の物にあらねば、殊に御霊のとどまり坐せる故にや有らむ、然るは古くかくと云ひしは、世の常の笠はさる物にて、軍の時に用ふる兜をもしか言ひしこと、我ふみどもに考へ明せる如くなれば、比御笠申とせるもかならず王の御軍に出給ふごとに冠たまへる御兜ならむと思はるればなり、さて此を御笠社とまうすより、人の躰にいづる腫物、また瘡といふ病をなをし給ふと世にいひ伝へて、其なやみ有る徒から、近き辺の国は更なり、遠き国々よりもまゐで来て、そのよし願まをすに、いと速なる験ありとぞ。この大神のさる病どもを直し給ふと云うこと、心得がたく思ふも有めれど、是なむ尊き神の御恵みにてかの吉野山に鎮座す、水分神とまをすは、雨を掌たもふ神に坐すを、いつの頃よりか唱へ訛りてみこもり明神と申すにつきて、子なき者いのり申せば、孕らしめ給ふ神ぞと世にいひつぎて祈り申すに、必ず其験ある如く、笠をはれ物のことに云ふなして、人の真心に祈り白すによりて、その御使い神などの、大神の幸御霊の御稜威をし賜はりて癒し給ふことと思はる。最も奇霊なる御わざなりかし。まして御足を損ひ給ひし御古事のあれは更なり斯ていにし文政六年八月のころ、己みやこりに上れる時しも、その御陵にまいり、御笠社にもまゐでて拝み奉れるに、その辺りの老人どもの言に、多病にても、腫れものの又は瘡など名けて、ねぎまをする人おほかるに、悉くその験ありといふに、畏けれど己があり経るやまひをし腫物ならねど其病ひになぞらへて願まをし、此病ども癒なむ後は、人づてにても賽し奉らむと、ねもごろに祈り申して帰れるに其病どもみな癒えたればいかで人伝にても奉賽し奉らむと常に心にかかる物から、よき伝なくて過しぬるを、今年その社に仕へまつる鈴本信房ぬしなも大江戸に来て、わが教へ子にさへなりて、此の御社の由よし書てと請はるるに、己としごろ信じ奉れる由緒もあれば、かへり白しの御初穂そなへ、なを行末の事の祈りをも頼み、打いさみつつ筆とりて、誰もよく読み、よく聞ゆべく、有のまにまに御由来をかく書しるせるは時は、文政十二年といふ年の九月

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




加佐登神社由来記

(祭神)
日本武尊
天照大御神(他 14柱 神明治41年合祀)
(由来)
古事記・日本書紀によると日本武尊は第12代景行天皇の皇子でした。生れつき武勇にすぐれた尊は若くして九州の熊襲、出雲を平定し、つづいて東国の蝦夷征討へと旅立ちます。尊は各地で戦い勝利を続けましたが、伊吹山の戦いで傷つき病におかされ動かぬ身体を引きずってこの能褒野に辿りつき大和を望んて短い生涯を終えたとされています。
  大和は国のまほろば たたなずく青垣
   山こもれる大和しうるわし
本殿北の白鳥塚は県下最大の円墳で、古くから日本武尊の御陵とされ本居宣長、平田篤胤らによって延喜の諸陵式の能褒野墓と考えられました。
この白鳥塚のそばに尊が死の間際まで持っておられた笠と杖を御神体としてお祭りしたのが加佐登神社の始まりです。明治以前は卸笠殿社と称され、諸病平癒の霊験あらたかで、人々の篤い信仰を受けてきました。
大祭は、日本武尊の命日と伝わる4月8日。
古代、この地は景行天皇が行在所を置かれたことから高宮の里とも呼はれ、附近には綺宮跡や、奉冠塚、奉装塚など多くの古い塚が残つでおり、神苑は県下有数のつつじの名所として知られています。
(祭日)
大祭4月8日・初八日大祭1月8日・月次祭毎月8日
例祭10月8日・春祭2月21日・秋祭11月30日

社頭掲示板



加佐登神社

当社の創始は定かではありません。
 主祭神・日本武尊(倭建命、ヤマトタケルノミコト)は、『古事記』『日本書紀』にも記されている、大和の国(古代の日本国)を統一に導いた伝説の英雄です。(諸説ありますが、4?5世紀、およそ今から1600年くらい前のことと云われております)
 第12代景行天皇の第2皇子として生まれた小碓命(おうすのみこと)は、若い頃から武勇にすぐれておりました。西国は九州の熊襲タケル・出雲タケルなどの豪族を従えてまわり、その後休む間も無く、帝の命令により東の蝦夷などの統一に向かわれました。
 東国を統一したその帰り道、尾張国のお妃・美夜受比賣命(宮津姫命)に神剣・天叢雲剣(草薙剣)を預け、伊吹山へ向かいました。(後にこの神剣が熱田神宮に祀られることとなります。三種の神器のひとつです。)
 しかし、尊は伊吹山の戦いで傷つき、病におかされてしまいます。
 尊は動かない体を引きずって、この能褒野の地にたどり着き、ここから遙かに父君のいる大和を望んでその短い生涯を終えられたと伝えられています。(※能褒野の場所については諸説ありますが、古代では、鈴鹿山脈の裾野あたりの一帯が「のぼり野」や「のぼの原」と云われていたようです。東海道より鈴鹿山脈まではなだらかな高台で、古代の古墳が数多くあります。その中の一つが、白鳥塚古墳です。)
 そのときわずか30歳余りであったとされています。(※多度・桑名・四日市・鈴鹿へと進まれた、尊の足跡にはいろいろな地名が残っております。この地の「三重」という名も尊の説話からきているのです。)
  倭(やまと)は 国のまほろば
  たたなづく 青垣
  山隠(こも)れる 倭し美(うるは)し
  (※大和は国の中でいちばん優秀なところだ、山々が重なりあって青い垣根のようだ、山々に囲まれている大和の国はほんとうに美しい)
 この歌は、尊が亡くなられる前鈴鹿の山々を眺めながら故郷を偲んだ歌、いわゆる「国偲びの歌」とよばれるものです。
尊の亡くなられたところが、本殿北西にある「白鳥塚」(白鳥御陵)です。
 この白鳥塚のそばに、尊が亡くなる時に持っていた形見の「笠」と「杖」をお祀りしたのが、加佐登神社の始まりと伝えられています。
 明治時代までは「御笠殿社」と呼ばれ、尊が亡くなられるまで病気に悩まされていたことから、病気平癒によく効くと、いにしえから今に至るまで人々の篤い信仰があります。
 尊が亡くなられた後、父君景行天皇が東国を回られた際、半年ほどこの地に滞在されたことから、ここは「高宮の里」と呼ばれるようになりました。(この高宮という地名は、明治まで使われていました。)
 そして、明治41年に高宮内の17神社を合祀し、今の「加佐登神社」となりました。合祀した神社の中には、延喜式内社「倭文(しどり)神社」も含まれています。

公式HP



倭文神社

倭文は志図利と訓べし○祭神天羽槌雄神○高宮村に在す、(俚諺)〇日本紀、(神代巻下)一云、故加遺倭文神建葉槌命者則服、」旧事紀、(神祇本紀)令倭文遠祖天羽槌雄神織文布者、
類社
駿河國富士郡、伊豆國田方郡、甲斐国巨摩郡、上野國那波郡、丹後國加佐郡、同國與謝郡、但馬國朝來郡、因幡国高草郡、伯耆國河村郡、同國久米郡倭文神社、(各一座)近江國滋賀郡倭神社、

神社覈録



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