久留真神社
くるまじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】久留真神社 伊勢国 安芸郡鎮座

   【現社名】久留真神社
   【住所】三重県鈴鹿市白子1-15-15
       北緯34度49分46秒,東経136度35分16秒
   【祭神】大己貴尊 (配祀)須世理姫命 漢織姫命
       『神名帳考証』呉織
       『神名帳考証再考』伊勢衣縫の先なる弟姫

   【例祭】4月15日近い土曜日 例祭
   【社格】旧県社
   【由緒】第21代雄略天皇の御代に創祀という
       文政4年(1821)12月「福徳の宮久留真神社」と改称
       明治39年12月神饌幣帛料供進社
       昭和18年4月13日県社

   【関係氏族】
   【鎮座地】元は白子小学校の東「白子1-4」付近にあった
        寛永11年現在地に移転

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「福徳天王社」「春日」「勝手明神」と称していた
   【社殿】本殿神明造
       拝殿・神輿殿・神饌所・手水舎・社務所・末社殿

   【境内社】

白子小学校の南、海の近くの神社である。 元は福徳天王社と称し、白子小学校の東「白子1-4」付近にあった。
寛永11年、福徳天王社の地は白子代官所となり、神社は現在地に移転し、その跡には白子御殿が建てられた。
この際、福徳神社は二つに分かれたようで、一つは当社となり,もう一つが白子駅近くの勝速日神社となったという。
江戸期に和田の勝手明神との間に式内の本社を争う訴訟があったが、文政4年(1821)12月「福徳の宮久留真神社」と改称した。
寛永11年現在地に移転の際勝手明神を合祀。
第30代敏達天皇の御代(約580年頃)には 漢織姫命を淡路国(淡島)へ分祀し現在も淡路市久留麻町に別宮伊勢久留麻神社として鎮座されている。


由緒

古代
往昔は大已貴尊と須世理姫尊の二柱の神さまを通称伊勢の森(現在の白子・御殿町一帯)という神奈備(神域)にお祀りして福徳さんと称え奉りその周りには、御神木である樹齢一千年以上の福徳の松が、天に聳えていました。
合祀
第21代略天皇の御代に呉の国(中国)の漢織、呉織、衣縫兄姫、弟姫等来朝し勅命によって伊勢の国民に紡績や衣縫など文明技術を伝授した功績は実に偉大であり万民を感動せしめ永遠に称え偲び奉らんとして漢織姫命を当社に合祀して、福徳の女神と仰ぎ奉りました。
延喜式内社
延長五年に集大成された延喜式内社であって、遠近の崇敬を集めた古社でありその御神徳の崇高なることを物語っています。
特別御遷座
寛永11年3月徳川龍院御殿並びに執政別府(代官所)設立用地のため伊勢の森の境内を上地して現在地に御遷座いたしました。その時に、二代目・三代目の福徳の松が植樹され現在に至ります。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




久留真神社

古代より当地の産土神として祀られ平安時代に定められた延喜式神名帳にも記載されている1300有余年の歴史をもつ格式高い神社です。当初、伊勢の森(現御殿町)に鎮座しておりましたが寛永11年(1634)紀州藩代官所設立用地のため大なる工費をもって現在地に移りました。その時、二代目、三代目と「福徳の松」も紀州候の命により植樹賜りました。
神社名は「福徳天皇社」と云っておりましたが、当地方一帯の地名を栗真荘と呼び、栗真荘で祀る福徳の車の女神様という故をもって文政4年(1821)12月「福徳の宮久留真神社」と改称し現在に至る。当社の前の道は伊勢参宮の旧街道です。明治天皇伊勢神宮参詣の砌参宮道筋の「総社」を持って勅使が立てられ幣帛料が奉られた由緒ある神社です。

社頭掲示板



白子代官所

郡奉行がおかれる前は「福徳神社」があったのを移転させ紀州城主の別邸を建て,代官所を併設した。
 現在の白子小学校の辺りが代官所で,それに隣接した北側に道路をはさんで堀と土塀に囲まれた御殿があった。
 福徳神社は移転して二つに分かれ,一つは久留真神社となり,もう一つが白子駅近くの勝速日神社となった。
 元の福徳神社の境内には直径が1一丈(3〜4m)ほどもあろうかと思える見事な老松があって,御殿の屋根においかぶさるようであったという。残念ながら明治13,14年頃に年老いて弱ったので伐(き)られたそうである。
(地図や配置図があり関係がわかりやすい)

http://www.pcs.jp/~sakura/siroko_daikan.html



久留真神社御由来

往昔は大国主尊と須世理姫尊の2柱を通称伊勢の森(現在の白子・御殿町一帯)という神奈備(神域)に「福徳さん」と崇め奉りその周りには、御神木である樹齢1千年以上の福徳の松が、天に聳えていました。
 第21代雄略天皇の御代に呉の国(中国)の漢織、呉織、衣縫兄姫等来朝したその際伊勢の国民に紡績や衣縫など文明技術を伝授された功績を永遠に称え偲び奉らんとして漢織姫命を福徳の女神と仰ぎ奉りました。
 文政4年12月、時代の移り変わるに従い益々尊称せられ当時の代表的産物「糸のべ車」の守護繁栄の神様(現在の車・交通安全の神様)と言えば栗真荘(当地方一帯の地名)で祭る福徳の車の女神様と言う故をもって「福徳天皇社」から「福徳之宮・車之総社・久留真神社」と社号を改称するにいたりました。

敬神会員作成HP



久留真神社

往古は、大己貴尊と須世理姫尊の2柱の神さまを伊勢の森(現在の白子・御殿町一帯)という神域にお祀りして福徳さんと称え奉り、その眉引こは御植木である樹齢1千年以上の『福徳の松』が天にそびえていました。その後、第21代雄略天皇の御代(約465年頃)に相殿神である漢織姫尊を合祀して、『福徳の車の女神』として仰ぎ奉られてきております。淡路肩へ分祀(別言 伊勢矢留麻神社)第30敏達天皇の御代(約580年頃)に相殿神である漢織姫尊の御神霊を淡路国(淡路島)へ分祀しました。現在も淡路市久留麻町に当神社別宮伊勢久留麻神社として鎮座されており、氏神さまとして地域の方々に厚く崇敬されています。延喜式内社 延長5年(927年)に編纂された延喜式神名帳に登載された延喜式内社であって(全国で3132座)、遠近の崇敬を集めた古社であり、その御神徳は崇高なることを物語っております。特別御遷座 寛永11年(1634年)3月、徳川頼宣南龍公(初代紀州藩主)御殿並びに執政別府(代官所)設立用地の為、伊勢の森境内を譲地し現在地へお移りになられました。その時に、初代、追って2代目の『福徳の松』が植樹されました。総社・御神刀 紀州徳川頼宣公は安藝郡十三社の総社として奉祀せられ、御遷座に当たりましては多額の公費を以って奉賛されると共に、葵の御紋付太刀を奉納されました。この太刀は当神社の宝物として現存されています。大国主尊は全智全能の大神さまで、福大黒さまとして親しまれ、開運招福・商売繁盛・延命長寿・学業成就・縁結び・交通安全等、開運導きの大神さまとして厚く信仰されています。また、漢織姫尊は福徳の車の女神として女性の守護神として尊ぱれ、多くの女性に崇敬され、美貌・美容・恋愛・健康等の成就祈願に遠近より多数参拝されております。社号改称 相殿神漢織姫尊を合祀して以東、その御神徳は時代の移り変わるに従い益々厚い崇敬を受ける様になりました。衣織物の神・紡績の祖と漢織姫尊を崇め奉る事より『福他の女神』と尊崇されると共に、荘園時代に当地方一帯の地名を栗真荘と呼ばれていたことから、文政4年(1821年)に栗真荘で奉る福徳の女神の故をもって『福徳天王久留眞神社』から『福徳之宮・久留眞神社』と社号を改称するに至りました。明治天皇代参 明治2年(1869年)3月、明治天皇が伊勢神宮参拝される途上、参宮街道筋の総社の故を限って勅命により当神社に御代参され御幣帛料を御下されました。県社昇格 昭和18年(1943年)4月、神祇院・第1 6 3号を以って内務大臣より村社から県社(県から幣帛を授かる神社)に列せられました。伊勢神宮奉納神事 平成8年(1996年)、伊勢神宮ご鎮座ニ千年を奉祝し当神社獅子舞神事を伊勢神宮内宮にて舞を奉納(バス2台、約80名が参加)致しました事は誠に名誉に輝く奉祝行事でした。平成の御造営 平成12年(2000年)、拝殿の改修と神輿殿・社務所・神具庫の新築等のエ事を行い、同年11月26目、御造営奉祝祭を執り行ない現在に至ります。

宮司記載 皇學館大学現代日本社会学部神社検索システム研究会



久留真神社

平安時代に定められた延喜式神名帳にも記載されている1300有余年の歴史をもつ格式高い神社です。
当初、伊勢の森(現御殿町)に鎮座しておりましたが寛永11年(1634)紀州藩宮邸設立用地のため旧殿地より現在地に遷りました。その時は二代目の「福徳の松」も紀州候の命により植樹賜わりました。
神社名は、古くは「福徳天皇社」といっておりましたが、当地方を栗真荘とよぶことと福徳の神を祀る故をもって文政4年(1821)12月福徳の宮久留真神社」と改称して現在に至ります。
明治2年(1869)明治天皇伊勢神宮行幸参拝の砌り、伊勢参宮街道筋に鎮座する当社に、街道筋の「総社」をもって勅使がたてられ幣帛共進を賜わり、昭和18年(1943)社格県社に昇格した由緒ある神社です。

社頭掲示板



久留眞神社

久留眞は假字也○祭神呉織、(考証、俚諺)〇白子村南栗間に在す、今勝手大明神と称す、(同上)
類社
淡路國津名郡伊勢久留麻神社

神社覈録



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