集落の西北隅の山裾に鎮座する。 本来は八幡。古からの八幡を江戸期に服機神社と称したという。 社伝に「当社は「延喜式内」の社で、元は神明の社と称し、また服織神社と申し伝え来たので、旧和歌山藩において神社の調査が行はれた際、その旨を上申せしところ、その後調査されて本社号を用いるに至つた」とある。 明治8年教部省によつて式内社と確定された。 |
服織神社 服織は八止利と訓べし、和名鈔、(郷名部)、服織(假字上の如し)○祭神織姫、(俚諺)○郡山村に在す、(同上)○日本紀、雄略天皇14年正月丙寅朔戊寅、身狭村主青等共呉国使、將呉所献手末才伎漢織呉織及衣縫兄媛弟媛等、泊於住吉津、漢織、呉織、衣縫、是飛鳥衣縫部、伊勢衣縫之先也、 類社 大和國城下郡服部神社の條見合すべし 神社覈録 |