尾根の上の神社。 平城天皇大同元年創立という。当時は50年毎の再建があった。文治・建久のころ平賀朝雅社領寄進。康元元年見雲五郎が近江より来て当社に奉祀し、その後見振と称して代々禰宜となった。元亀3には稲振大明神と称していた。 江戸初期に稻降神一社、春日八幡一社、ひじりの宮一社の三社があり。文禄の検地によつて供田没収されて以後は荒廃をつづけたが、正保2年(1645)に藩主藤堂高次の田地寄進によつて社頭は修補された。 明治12年(1879年)、社殿が造営された。その際、瑞垣内に、早生・中生・晩生・もちの四種の稲が自生したと伝わる。 この自生した稲について、人々は神の瑞穂として大切にし、広く県内各地へも分配した、と記されている霊験記念碑が境内に立っている。 |
由緒 弥尼布理神社(通称いねふりさん) 河芸町教育委員会設置案内板による この神社は延喜式内社で保食神の稲倉魂命(うがのみたまの命)を祭神とする。 ほかに大年命・天之児屋根命等八柱を祭る。大同元年(806)6月東海道観察使により創建された。 五穀を司る神として昔から近隣住民に崇敬されている。創建以来五十年毎に造営・祭礼が行われて来たが、そのたび五穀豊穣し住民は窮乏や悪疫から救われたという。 社殿は桧造桧皮葺神明造りで、明治12年の造営、翌12年瑞垣内に、早生・中生・晩生・もちの四種の稲が自生した。 人々は神の瑞穂と大切にし広く県内各地へも分配したという霊験記念碑が境内に立っている。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
弥尼布理神社 (通称いねふりさん) この神社は延喜式内社で保食神の稲倉魂(うがのみたまの命〕を祭神とする。 ほかに大年命・天之児屋根命等八柱を祭る。大同元年(806)6月東海道観察使により創建された。 五穀を司る神として昔から近隣住民に崇敬されている。創建以来、五十年毎に造営・祭礼が行われて来たが、そのたびに五穀豊穣し、住民は窮乏や悪疫から救われたという。 社殿は桧造桧皮葺神明造りで、明治12年の造営・翌12年瑞垣内に、早生・中生・晩生・もちの四種の稲が自生した。 人々は神の瑞穂と大切にし広く県内各地へも分配したという霊験記念碑が境内に立っている。 河芸町教育委員会 社頭掲示板 |
彌尼布理神社 彌尼布理は假字也〇祭神稻降神、(考証、俚諺)○北黒田村に在す、(同上、但し考証には、村北八町山上三神殿相並、黒田は郷名と云り) 神社覈録 |