大沢池の東北山裾に鎮座する。 本来は前面田地であるが、新しい県道10号がひらけ現在は四つ角の神社。 |
石積神社 織田信長の戦乱により当社は兵火によつて社宇灰儘に帰したとき、神霊は伊勢神宮に遷らせ給うた。 そしてその後いつの世か不明であるが、山田地方に非常の暴風雨が頻発して人民災害に苦んだ。そこで宮司が神宣を伺ひ奉つたところ、これ石積の神の崇りにつき、神霊を鈴鹿の山続きなる尾前の地、南に溜池あり、北に里ある所に遷し祀れよとのことあり、直ちに當社の旧社地窪田階下に奉遷せられた。 以來里人は霊験のあることを知つて、ますます尊崇するに至つた。 社伝 |
石積神社 津市指定民俗資料 木造塗漆 獅子頭 付麻製包布・格納箱 江戸時代 平成3年12槻5日指定 この獅子頭は、正面幅34cm、高さ27.3cm、奥行36.5cm、全体にやや小型で奥行か小さく、丸味を感じさせるなど古様の型を残している。右側後端には把手があり、舞い手は右手でこれを持ち、左手で下顎を以て獅子頭を操るようになっている。 麻製包布2枚の内の1枚に、万治3年(1660)の墨書銘があることから、江戸時代前半期に製作されたことがわかる貴重な例である。またこの格納箱の裏書によって、この獅子頭は現在の一身田小学校校庭にあった一宮大神宮・春日大明神のものであったことがわかる。 窪田獅子舞は、3年に一度正月に行われていたが、大正時代頃から舞い手がなくなったため、一身田中野獅子舞の技術を習得して昭和24年復活した。この獅子舞頭は、昭和60年まで使用されていたものである。 社伝 |
石積神社 創立は延喜年間以前であるが詳細は不詳である。織田信長の乱に際して兵火に罹り。「社宇悉く灰燼に帰せりし時神霊は伊勢神宮に遷らせ給う時に山田地方大いに暴れて天災・変数々到る。依て神官に神宣を伺わしむるに神宣あって曰、これ石積の神の崇りなりと神語に宣給えり、鈴鹿山の山続なる尾前に於て南の溜池在り北に里ある處に移し祭れよとの宣ありしに囚り神宮より直ちに神官従者等に命じて神輿を奉ぜしめ此の所に祀りし」処の窪田階下に奉遷せられたと伝える。特殊神事:獅子舞 3年毎の正月2日より5日 獅子頭は津市有形文化財 皇學館大学現代日本社会学部神社検索システム研究会 |