国道23号線北、津西病院の北の丘の上に鎮座する。この地は大古曾御厨とある地で社名もそれに由来するという。 中世社名も失われ、江戸期には「大梵天王」「七社明神」と称された。 明治41年5月中野村の大乃己所神社を合祀。 |
由緒 鎮座地 津市一身田大古曽1739 御祭神 大物主神 大日霊命 豐受毘賣命 品陀和氣命 天忍穂耳命 底筒之男命 中筒之男命 上筒之男命 譽田別命 須佐之男命 天照皇大神 國狹槌命 石凝姥命 宇迦之御魂神 大山津見神 御例祭 10月9日10日 由緒 創立年月日は不詳であるが、天慶5年(942)の大神主大乃己所重久の記した縁起書(写)に大物主神御鎮座を記してある。また、鬼退治(大物主神勧請)の伝説等もあり天慶以前の創立と伝える。織田信長の回禄の変にて社殿社屋共に灰燼に帰した。明治41年須賀神社など11社を合祀した。昭和26年には八幡神社など3社を分祀している。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
説話 伊勢國奄藝郡の猟人が山に入つて鬼を射殺し、その鬼の捕へてゐた女を妻として児を生んだところ、母子ともに姿を隠して行方不明となつてしまつた。その後猟人が大和國三輪社に詣でて再会を所つたとき、神殿忽ち開扉して母子ともに殿内にあり、猟人妻子みな化して神となつた。そこでその神祭は奄藝郡の人が執行することになつたといふのである。このやうな由緒によつて、三輪の明神すなはち大物主神を創祀したのが當社に他ならない 『袖中抄』『童蒙抄』 |
大乃己所神社 由 緒 創立の時期は不詳であるが、天慶5年(942年)の大神主 大乃己所重久著の縁起書(写)に大物主神御鎮座の記述があり、天慶以前の創立と考えられる。 明治41年には須賀神社など11社を合祀し、昭和26年には八幡神社など3社を分祀している。 大物主神の鬼退治の伝説がある 公式HP |
大乃己所神社 太乃己所は於保能古曾と訓べし〇祭神詳ならず○大古曾村に在す、(考証、俚諺) 考証云、大物主神、袖中抄曰、(第九の巻志るしの杉の條)童蒙抄に、昔伊勢国菴芸郡にはべりける人の、深山に入て鹿まちはべりけるほどに、風吹雨降氣色ただならずして來るものあり、猟師是を謝てあてつ、其度風雨やみてかへりぬ、夜のあくるまゝに血の跡につきて尋いたる、遥かなる山中にすこしはなれて野中に塚あり、其内にいれり、其塚の前に神女ありて、此猟師をまねく、即ち月に矢をはけてすゝみよる、神女おそるゝけしきなくていはく、汝がいたりつるものは此塚にずむ鬼なり、われこのおにゝとられて年来此塚にすめり、汝此鬼ころすべし、こゝに猟師柴をかりて、其塚の口にいれて火をつけて焼ころしつ、其後この神を具して家にかへりぬ、相住事三年になるに猟師とみさかえぬ、又児一人をうましめたり、其時此男白地にあるきけり、其間に此女うせぬ、帰來て見るに、女はなくて児一人あり、泣悲しむで尋行ど行方をしらず、志ばらくありて此児又うせぬ、彌泣悲むぼどに、此女常にいたりける所を見るに、三輪の山本すぎ立る門とばかりかきつけたり、是によりて大和国に尋ねいたりて、三輪の明神の社に参て、この女にあふべきよしを祈り申程に、其社の戸を押開ぎて見え給ふ、児も同じくみゆ、此男志の切なる事を見て、共に誓ひて神になれりと見えたり、これによりて其神の祭りをぱ、伊勢國菴芸郡の人の行ふ也、云々とあるを引て、大物主神といへるなれど、こは其猟師と神女との事をいふにてあれば、三輪神とは称しがたく、かつ当社の事とも申がたくやあらん、勢陽狸諺には、天鈿女命といへど、是も由縁をいはず、猶考ふべし、 神社覈録 |