加和良神社
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   【延喜式神名帳】加和良神社 伊勢国 奄芸郡鎮座

   【現社名】加和良神社
   【住所】三重県鈴鹿市稲生塩屋2-22-22
       北緯34度49分50秒,東経136度34分4秒
   【祭神】木花之咲耶姫命 (配祀)武内宿禰命 高良玉垂命
       (合祀)品陀和気命 須佐之男命 八街比古命 八街比売命

   【例祭】10月16日 例祭
   【社格】旧村社
   【由緒】天平19年(747)以前の創祀
       古記録浬滅し、その後の変遷を明かにし得ない
       明治8年稲生村塩屋の当社が式内の本社たる指定を受けた
       明治39年12月神饌幣帛料供進社
       大正11年10月1日大字稲生字京ノ山(現地)へ移転

   【関係氏族】
   【鎮座地】古来奄藝郡塩屋村字高良の地に鎭座した
        大正11年10月1日大字稲生字京ノ山(現地)へ移転

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「高良社」と称していた
   【社殿】本殿神明造
       幣殿・拝殿・神饌所

   【境内社】

鈴鹿市水道局の南西200mの街中に鎮座する。参道に石灯籠の多い神社である。
天平19年(747)の『大安寺伽藍縁起流記資財帳』に加和良社の名が見られ古くより祀られていた。
その後、古い記録は殆んど浬滅し、その後の変遷を明かにし得ない。江戸期には社名も失われていた。
江戸期に奄藝郡塩屋村字高良の地に鎮座する「高良社」と称する祠が加和良社の訛傳して遺存したものとされた。
明治8年稲生村塩屋の当社が式内の本社たる指定を受けた。
明治41年11月に須賀神社を、また大正3年2月には八幡社を、更に大正5年2月には伊達神社を合祀した。
大正11年10月1日大字稲生字京ノ山(現地)へ移転。


由緒

創祀は不詳であるが、奈良時代の天平年間に成る「大安寺資料帳」には「高良社」と見え、既にこの頃には祀られていたと思われる。平安時代中期に成立した「延喜式神名帳」にも登載されており、所謂延喜式内社である。明治39年12月神饌幣帛料供進社に指定された。明治41年11月に須賀神社を、また大正3年2月には八幡社を、更に大正5年2月には伊達神社を合祀した。大正11年7月21日河原の南方より現在地に遷座し今に至っている。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




加和艮神社

加和良は假字也〇祭神手力雄命〇三宅村に在す、今千力大明神と称す、
勢陽俚諺に、雑記云、千力大明神三咤村にあり云々、按るに天手力雄命にてましますならん、千力は手力の誤なるべし、上古は大社由なるが、今は社壇拝殿いと■の有様也と云り、
社領
同俚諺曰、三宅の何某領主たりし時、御供田二十石ありと、云々、織田上野介信長の守りたりしより没収せられたり、
類社
丹波国氷上郡加和良神社

神社覈録



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