鈴鹿市水道局の南西200mの街中に鎮座する。参道に石灯籠の多い神社である。 天平19年(747)の『大安寺伽藍縁起流記資財帳』に加和良社の名が見られ古くより祀られていた。 その後、古い記録は殆んど浬滅し、その後の変遷を明かにし得ない。江戸期には社名も失われていた。 江戸期に奄藝郡塩屋村字高良の地に鎮座する「高良社」と称する祠が加和良社の訛傳して遺存したものとされた。 明治8年稲生村塩屋の当社が式内の本社たる指定を受けた。 明治41年11月に須賀神社を、また大正3年2月には八幡社を、更に大正5年2月には伊達神社を合祀した。 大正11年10月1日大字稲生字京ノ山(現地)へ移転。 |
由緒 創祀は不詳であるが、奈良時代の天平年間に成る「大安寺資料帳」には「高良社」と見え、既にこの頃には祀られていたと思われる。平安時代中期に成立した「延喜式神名帳」にも登載されており、所謂延喜式内社である。明治39年12月神饌幣帛料供進社に指定された。明治41年11月に須賀神社を、また大正3年2月には八幡社を、更に大正5年2月には伊達神社を合祀した。大正11年7月21日河原の南方より現在地に遷座し今に至っている。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
加和艮神社 加和良は假字也〇祭神手力雄命〇三宅村に在す、今千力大明神と称す、 勢陽俚諺に、雑記云、千力大明神三咤村にあり云々、按るに天手力雄命にてましますならん、千力は手力の誤なるべし、上古は大社由なるが、今は社壇拝殿いと■の有様也と云り、 社領 同俚諺曰、三宅の何某領主たりし時、御供田二十石ありと、云々、織田上野介信長の守りたりしより没収せられたり、 類社 丹波国氷上郡加和良神社 神社覈録 |