鈴鹿サーキットの南東に鎮座する大社。 神代に東ケ岡(鈴鹿サーキット地内)に御神霊が出現せられて、崇神天皇5年に、神路ケ岡に大宮・西宮・三大神をお祭りされた。さらに、平安時代に弘法大師がこられた時に菩薩堂を建立し、七島池を一夜にして造られたと伝えられてる。平安時代には、東は白子、西は国府、南は秋永、北は野町に及ぶ広大な社領を有していた。その後、鎌倉時代には幕府の将軍、江戸時代、紀伊の徳川家からも寄進をうけたという記録が残っている。 古来より「大宮」「三大神」「西の宮」の三社があり、その中の大宮一座が式内社として認められたとされている。 現在は「三大神」「西の宮」は社殿跡のみ石碑で残っている。 当社に伝わる獅子舞は、およそ1300年前の壬申の乱の後に、天武天皇が戦勝報賽に獣神を埋納されたのに始まり、前出の弘法大師参籠の折に大師が獅子頭を奉製し、また承安4(1174)年の銘が入った獅子頭が残されており、現在も古例に則り3年に1度(丑辰未戌の年)舞われている。 |
由緒 当神社は社伝によれば、神代、東ケ岡(鈴鹿サーキット地内)に御神霊が出現せられ、霊夢の神告により崇神天皇五年勅使参向のもと、「占木」の地にて社殿造営の地を占われ、神路ケ岡に大宮・西宮・三大神を鎮祭されました。その後仲哀天皇の御子品屋別命の子孫(磯部氏)が代々当社の神主として仕え、雄略天皇五年には数種の幣物が奉納され、主祭神保食神には「那江大国道命」の御神号を賜わりました。降って奈良時代天平年間、行基上人が別当寺の神宮寺を建立され、更に平安時代天長年間には弘法大師が参籠の折、菩薩堂を建立して三社の本地仏を祀り、七島池を一夜にして造られたと伝えられております。 貞観7(865)年4月、正五位上より従四位下に進階し(三代実録)、延喜式内社に列しております。当時の神領は東は白子、西は国府、南は秋永、北は野町に及ぶ広大な面積でありました。鎌倉時代中頃には正一位に進階し、文永11(1274)年3社に勅額を賜わりました。以後「正一位稲生大明神」として武門武将の尊信厚く、ことに鎌倉将軍惟康親王は神田二百二十町歩、北畠国司は社領千石御供田十二段を寄進せられ、また江戸時代元文年間には、紀伊徳川家より造営料銀二十二貫を賜わり、三社の大造営をなしております。明治6年郷社、同37年県社に列せられ、戦後この制度は廃止され現在に至っております。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
伊奈富神社 保食大神は一切の食物をつかさどられ、ことに私たちの命の根本たる稲の生産豊穣を守護される神様であります。また、大神様は豊受大神(外宮)、稲荷大神と同神で、その御神徳の及ぶところ広大無辺にして五穀豊穣、諸業繁栄(商売繁盛)、家内安全、厄除開運、良縁成就、学業成就、病気平癒等の御霊験あらたかな大神様であります。 社頭掲示板 |
伊奈富神社庭園 昭和57年4月27日指定 伊奈富神社 この庭は自然湧水で、池の中には島が七個あるので「七島の池」とも言われ、東西70m、南北15m、水深30〜70cmに及んでいる。 島は西より二番目が最も大きく、橋がかけられ、小さなほこら跡がある。 室町時代の作とされる「勢州稲生村三社絵図」にも描かれている。 日本最古の「七島式庭園」として保存状態もよく、価値も高い。 鈴鹿市教育委員会 社頭掲示板 |
伊奈富神社 当神社は社伝によれば、神代、東ヶ岡(鈴鹿サーキット地内)に御神霊が出現せられ、今より遡ることおよそ2100年の崇神天皇五年、霊夢の神告により勅使参向のもと、「占木」の地にて社殿造営の地を占われ、神路ヶ岡に大宮・西宮・三大神の三社を鎮祭されました。その後、仲哀天皇の御子品屋別命の子孫(磯部氏)が代々当社の神主として仕え(※1)、雄略天皇五年には数種の幣物が奉納され、主祭神保食神には「那江大国道命」の御神号を賜りました。降って奈良時代天平年間、行基上人が別当寺の神宮寺を建立され、更に平安時代天長年間には弘法大師が参籠の折、菩薩堂を建立して三社の本地仏を祀り、獅子頭を奉納、七島池を一夜にして造られたと伝えられております。貞観7(865)年4月、正五位上より従四位下に進階し(三代実録)、延喜式内社に列せられております。当時の神領は東は白子、西は国府、南は秋永、北は野町に及ぶ広大な面積でありました。鎌倉時代中頃には正一位に進階し、文永11(1274)年三社それぞれに勅額を賜りました。以後「正一位稲生大明神」として武門武将の尊信篤く、ことに鎌倉将軍惟康親王は神田二百二十町歩、北畠国司は社領千石御供田十二段を寄進せられ、また江戸時代元文年間には、紀伊徳川家より造営料銀二十二貫を賜り、三社の大造営をなしております。明治期に入ると明治6年に郷社、同37年に県社に列せられましたが、戦後この制度は廃止され現在に至っております。 ※1 現在も「社家」と呼ばれるその家系が残っております。 公式HP |
伊奈富神社 伊奈富は假字也○祭神大宮那江大國道命、西宮地主姫神、三大神雷電神、〇稻生村に在す、 今稻生明神と称す、(俚諺) 社記曰、風土記云、大宮那江大國道命、西宮地生姫神、三大神宮雷電神是也、昔天若国若時、天照大神並大国道命計曰、吾等天降瑞穗國可王人民、今豊是時保食神腹中生穂、天熊人収持去而奉進之、于時天照大神善之曰、是物者則顯見蒼生可食而活也、云々、〇神宮雑事記云、三月三日、奄芸郡坐稻生社祭禮也、〇二月堂神名式、稻穗大明神、 四至、雑事 朝野群載巻七、嘉承2年12月、摂政右大臣家政所下伊勢国稻生社並栗真御荘、可早任年來例、且停止彼此非論且召進濫行下手人事、稲生社四至、限西國府東駿河、限東白子濱、限南井手橋南畔、限北奄芸川曲郡堺云々、右以彼御荘解状、令問社家之所、陳状云、吉田大明神、依無指封戸田畠、敢無守護神民、困茲年來件社爲末社、以于他利所勤仕時節供祭也、是且諸社一同之例也、而御荘住人、耕作神田、旁構謀計、猥所押取也、為触子細、神民等度々行向之所、助住所從等帯弓箭、去長治3年11月比、神人五六人所押損也、件下手人可召進之由、雖被仰下、未被決断之間、濫行彌甚云々者、早任年來例、停停止非論兼可令召進下手人之状、所仰如件、社並荘司宜承知、依件行之、不可違故下、 神社覈録 |
縣社 伊奈富神社 祭神 保食命 大風道命 相殿 豊宇賀能売神 稚産霊神 鳴雷之神 大山祇神 社伝に拠るに、創建は崇神天皇の御宇叡慮に由り勅使参向の上造営せられし者にして、延喜の制式の小社に列す、神名帳考証に、「伊奈富神社、今在稲生村乾松山大国道命」と見え、神名帳考証再考には「今、云稻生村乾杉山に在、雑事記曰、三月三日、奄芸郡坐稲生社祭日也と、所祀保食神也、考証に引稻生神社、式に出たる風土記の説不可なり、三社としては式文不合」とあり、初め伊勢國粟眞庄塩屋郷稻生村神路岡(此宮域廿余町歩あり一名躑躅山とも云ふ)に鎮祭す、乃ち此地古代は大淵なること当社所蔵の古図に明なり、方今は僅に小川の傍に碑文を存するのみ、其大意は上古霊夢の神告により崇神天皇叡旨を下され勅使此処に於て、神殿建築の地を占はせ給ふ、依つて今尚小字占木の名あり、此霊地は上代保食大神降臨の処たるを以て此を選びしものにして、世俗稻生皇大神或は伊那保大籾宮又は苗の神等と呼ぶ、其後雄略天皇は神徳に感じ給ひ、当國の司に命じて数種の幣物献供あり、且祭神に那江大國道命の御名を賜ふ、三代実録に、「貞観7年4月15日乙丑、授伊勢国正五位上稲生神從四位上」と見え、神社覈録に、「伊奈富は仮宇也、祭神大宮那江大國道命、西宮地主姫神、三大神雷電神、稻生村に在す、今稻生明神と称す」と云ひ、祭神を三柱とす、蓋風土記に云く、「大宮那江大國道命、西宮地主姫神、三大神宮雷電神是也、昔天若國若時、天照大神並大國道命計曰、吾等天降穂瑞國可王人民、今豊是時保食神腹中生穂、天熊人取持去而奉進之于時天照大神善之曰、是物者則顯見蒼生可食而活也云々」、神祇志料に云く、「伊奈富神社、今稻生村の乾、松山に在り、稻生大明神、又大宮殿と云ふ、」二月堂神名式に、「稲穂大明神、按検録に云く、神殿は大宮、三大神、西宮の三区所を別にして、各高大の殿宇あり、束國第一の神社也、稻生明神講式と云ふもの、内に、風土記の古文を引きて、大宮那江大國道命、西宮地主姫命、三大神は雷電神なる旨を載すとあり、附て後考に備ふ」とあり、此く由緒ある神社なるを以て、朝野群載巻七に、「嘉承2年12月、摂政右大臣家政所下伊勢国稻生社並栗真御荘、可早任年来例且停止彼此非諭且召進濫行下手人事。稻生社四至、限西國府東枝河、限東白子濱、限南井手橋南畔、限北奄芸川曲郡堺云々、右以彼御荘解状、令問社家之所、陳状云、吉田大明神、依無指封戸田畠、敢無守護神民因茲年来件社為末社、以于地利所勤仕時節供祭也、是且諸社一同之例也、而御荘住人、耕作神田、旁構謀計、猥所押収也、爲触子細、神民等度々行向之所、助任所從等帯弓箭、去長治3年11月比、神人五六人所打損也、件下手人可召進之由、雖被仰下、未被決断之間、濫行彌笹云々者、早任年来例、停止非論兼可令召進下手人之状、所仰如件、社禰宜並荘司等宜承知依件行之、不可違失、故下」とあるが如く、当時の神領は共面積実に方一里に亘り十余ケ村に跨り、旧高一萬八千九十三石六斗八合と称す、是より先、淳和天皇天長中弘法大師の奏聞に由り、崇神天皇の尊像を鎮祭す、又弘法大師は当社に参籠中大宮の東傍に一宇を営み、本宮より宝米(此宝米は保食神の霊呪にして世人之を一寸八分の神代米と尊称す)を遷し菩薩堂と唱ふ、亀山天皇は文永11年世尊寺経朝卿をして、各殿尊卑の等差に從ひ、大宮真書、西宮行書、三大神草書の扁額を献ぜらる、次いで鎌倉將軍惟康親王は神田二百廿町を寄附し、北畠氏の國司となるや、社領千石御供田十二反を納め、総て公役を免除せらる、此く本社の所領は廣漠なるが故に、今尚諸所に旧蹟を存せり、加之、古來朝家及び代々の領主崇敬殊に厚きを以て、式年の造営修復等の如き当社現存の棟札に微して明なり、明治8年郷社に列し、同37年縣社に昇格す、 社殿は本殿三宇、拝殿三宇、神樂殿、御輿殿、参籠殿、宝米殿、御供炊所、勅使殿、祭官握含、社務所等具備し、境内坪数3867坪(官有地第一種)外に上地林1795坪と八反六畝十七歩明治39年境内編入許可せらる、社地は躑躅山の半腹に在り、老松古杉宮殿の間を点綴し、交ふるに花木を以てでるのみならす、占木の淵、占木の碑石、七霊御島池等の旧蹟を存す。 宝物は崇神天皇の尊像、御饌具及神樂(天武天皇并高倉院の奉納、古老云、行基師、春日佛師、安南佛師、空海師等の作なりと)鉄の弓箭及び甕(■禎2年申白子兼丈□奉之所也の文字見ゆ)天の宝鉾、桂男の姿、御楯、御劒、勅額、棟札数枚、経文十有余巻(光明皇后、宗尊親王、空海大師、慈覚大師、世尊寺経朝卿、大夫坊覚明寺怯親王等の真筆)等あり。 特有祭事は往昔壬申の乱に賊軍襲来の時、天武天皇は伊勢神宮より桑名へ御潜行の塗次、当社に一昼夜御参籠ありて擁護を祈らせ給ふに、猛獣の異神数多現出し大友軍を撃攘す、天皇叡感斜めならず、即位の後異神の霊形(今の獅子頭也)を献ぜられ、是を鈿女命と奉齋あり、干支十二ケ年中丑辰未戌の相当年は危難を虞れ、悪魔退散のため國中に舞神樂を巡廻せしめらると、一は当社の神領地古代は北勢に数ケ所ありし縁故により、祭神は五穀神なるを以て三ヶ年に一度づゝ伊勢国各町村へ祈年祭のため、式年を以て舞神樂に巡祀の恒例ありしが今は廃す。(以上杜記に拠る) 明治神社誌料 |